第59話:虚無の心核へ突撃~ロイドの神話ステップ~
ヒロインたちの愛の結界によって切り開かれた、清らかな光の道を駆け抜けるロイド。
彼の足取りは、死地へ向かう戦士のそれとは程遠く、朝の散歩へ出かける庭師のように軽やかで、どこまでも自然体だった。
前方十メートルに迫る、全長数キロメートルの厄獣『エントロピー・ウロボロス』の漆黒の巨躯。
触れただけであらゆる物質を黒い砂へと風化させる絶対死のヘドロの肉塊。
だが、ロイドは眉一つ動かすことなく、右足に軽く魔力を込めると、巨獣の巨大な下あごの先端へ向かってフワリと跳躍した。
パシュンッ。
ロイドの長靴の底が、ウロボロスの黒いヘドロの皮膚に着地した。
通常であれば、靴底から全身へと腐食が侵食し、コンマ一秒で灰燼に帰すはずの瞬間。
しかし――ロイドの足裏からは、常に微弱で完璧な《受動分子解体》の波動が展開されていた。
触れた瞬間に、ウロボロスの放つ腐食性のエントロピー分子が中和・解体され、足元のドロドロのヘドロは、まるで焼きたてのパンのクラストのように乾いた、極めて滑りにくく歩きやすい安定した足場へと瞬時に再構築されたのだ。
「よし、足場よし。それじゃあ、てっぺんまで上がろうか」
ロイドは愛用の竹箒を右手に持ち、数キロメートルに及ぶ巨獣の背骨の上を、トントンと小気味よいステップを踏みながら駆け上がっていった。
その光景は、遠くから見守る皇帝や避難民たちにとって、もはや神話の神業そのものだった。
侵入者を感知したウロボロスの巨体が、怒りに狂って激しく身悶えする。
ビチビチビチビチッ! ヒュンッ!
背中を覆う無数の産業廃棄物の山から、ドロドロのコールタールで編まれた数百本もの巨大な触手が、槍のように一斉にロイドへと突き刺さってきた。
さらに、上空からは生物の骨を溶かす猛烈な酸性雨が土砂降りのように降り注ぐ。
阿鼻叫喚の地獄の迎撃。
だが、ロイドの目には、それらは敵の攻撃などではなく、ただの「散らかった粗大ゴミと水たまり」にしか見えていなかった。
「おっと、危ない危ない。道に物を散らかしちゃダメだよ」
迫り来る百本の漆黒の触手に対し、ロイドは駆け抜けながら、左手の指先で触手の先端をポン、ポン、ポンと軽くタップしていった。
――《原質部分解体》。
カチャリ、カチャリ、カチャリ。
ロイドの指が触れた瞬間、巨大な触手は結合エネルギーを失い、ただの乾いた無害な木炭の粉となってサラサラと空中で崩れ去っていく。
降り注ぐ強烈な酸性雨に対しては、手にした竹箒をクルクルと頭上で軽快に回転させた。
――《原質清掃・飛沫拡散解体》。
パパパパパパッ!と竹箒の穂先が酸の雨粒を捉えるたび、酸性化合物は無害な純水と酸素ガスへと分解され、爽快な水蒸気となって空へと昇華していく。
巨獣の背中には、数千年前の古代帝国の石材や、酸化した旧式魔導具、さらには太古の魔導炉の残骸がびっしりとこびりついていた。
ロイドはそれらを駆け抜けながら目で確かめ、「うん、この合金は後で磨けば立派なスコップになるな」「この石材は花壇の縁取りにぴったりだ」と、頭の中で楽しそうにリサイクル計画を立てていた。
まるで熟練の大工が作業場の木屑を払い、庭師が落ち葉を掃き清めるかのような、あまりにも優雅で無駄のない神話のステップ。
巨獣がいくら毒を放ち、触手を伸ばそうとも、ロイドの纏う解体の領域を侵すことなど一ミリたりとも叶わなかった。
数分後。
ロイドは数キロメートルの険しい巨躯を一気に駆け抜け、ウロボロスの巨大な頭頂部――天を突く頭蓋の頂へと辿り着いた。
そこに鎮座していたのは、直径三十メートルにおよぶ、脈打つ紫黒色の超巨大な球体。
数万年分のヘドロ、悪意、劣化、そして星のあらゆるエントロピーが極限まで凝縮された、厄獣の心臓にして核――『虚無の心核』であった。
ドクンッ……ドクンッ……。
その心核から漏れ出る冷気だけで、周囲の空間そのものが激しく歪み、大気中の光子すら底なしの暗黒へと吸い込まれていく。
触れた者を魂ごと無へと帰す、星の誕生以来蓄積されてきた絶望の結晶。
だが、その破滅の核を目の前にして、ロイドの瞳に宿っていたのは、恐怖でも憎悪でもなかった。
どこまでも深く、温かな慈愛と憐憫の光だった。
ロイドには聞こえていたのだ。
誰からも愛されず、役目を終えたからと捨てられ、暗闇の底でただひたすらに腐敗し続けるしかなかった、物質たちの声なき悲鳴が。
「ずっと……寂しかったんだね。誰にも綺麗にしてもらえなくて、辛かったね」
ロイドはそっと竹箒を脇に置き、作業着の袖をまくると、紫黒色の心核へ向けて優しく両手を伸ばしたのだった。




