第34話:泥まみれの這走~「ロイドのところへ行くしかない」~
どれほどの時間が経っただろうか。
峡谷の岩陰で夜を明かし、ポイズン・ヒドラの追撃を奇跡的にやり過ごしたレオンは、全身泥と血まみれになりながら、国境の荒野を這いずり回っていた。
折れた右腕は紫色に変色して丸太のように腫れ上がり、骨の断端が肉を内側から突き破りそうになるたびに、脳天を突き抜ける激痛が走る。
傷口には泥水と砂利が入り込み、ドス黒い膿が滲み出ていた。
喉はカラカラに渇き、誇り高かった黄金の髪は泥水でヘドロ色に染まり、蝿やブヨが顔の周りにブンブンとたかっている。
夜の寒風が吹き付けるたびに、折れた骨がズキズキと疼き、レオンは地面の泥水をすすりながら涙を流した。
あまりの激痛に、何度も意識が飛びかけ、そのたびに自らの舌を噛んで耐え忍ぶ。
道端に転がっていた濁った水たまりに顔を突っ込み、腐ったような味の水を喉へと流し込みながら、レオンは悔し涙で泥の地面を叩いた。
全身の皮膚は荒れ狂う紫外線と毒煙でケロイド状に焼け爛れ、かつての美男子の面影など欠片も残っていない。
「はぁ……はぁ……っ! クソッ……クソッ……! あいつら……僕を見捨てやがって……! エレンもクライドもミラも……全員ギロチンに送ってやる……! 僕を見捨てた罪で、一族郎党皆殺しにしてやるんだぁっ……!」
怨嗟の言葉を吐き散らしながら泥沼を這っていたレオンの前に、バシャリと音を立てて崖の上から転がり込んできた巨大な人影があった。
「ぶへぇっ!? だ、誰だ!?」
「ひぃぃっ! お、命ばかりはぁぁぁっ! 金ならいくらでもやるぅぅっ!」
泥まみれで抱き合って転がった二人が、互いの顔を見合わせた。
「レ、レオン殿……!? その右腕は一体……!?」
「バ、バルト伯爵……!? あんた、なんでこんなところに!?」
それは、宮廷を追放され、市民暴徒と近衛兵の追っ手から命からがら逃げ出してきたバルト伯爵だった。
自慢の豪奢なビロード貴族服は泥水でボロボロに引き裂かれ、肥満体の身体を汗と脂でギトギトに光らせている。
「お、終わりです……! 帝都は完全に市民の暴動で占拠され、皇帝陛下は私に全責任を被せて『見つけ次第ギロチンにかけろ』と全軍にお触れを出したのです……! 我が屋敷も暴徒に焼き払われ、もう帝都には戻れません……!」
「な、なんだってぇぇぇっ!? じゃあ僕の名誉はどうなるんだ! 僕の治療費はどうなるんだよ!」
「そんなこと知るかぁっ! 私だって一文無しだ! そもそも貴様がヒドラを討伐して凱旋していれば、こんなことにはならなかったのだぞ!」
「なんだと!? あんたがそそのかしたんだろうが!」
泥沼の中で掴み合いの罵り合いを始める二人。
だが――激痛で再びレオンが「ぎゃああっ!」と悲鳴を上げた瞬間、バルトがハッと何かに気づいたように目を見開いた。
「ま、待てよ……? レオン殿、思い出してください! 以前、貴方が戦場で手足を骨折した時……あの男が、ほんの数秒で骨を治していたではありませんか!」
「え……? あ……!」
レオンの脳裏に、かつて雑用係としてこき使っていたロイドの姿が蘇った。
どんな致命傷を負っても、どんなに武器がボロボロになっても、ロイドが手をかざすだけで一瞬で新品同様に元通りになっていた、あの不可解な力。
「ロ、ロイドだ……! あいつだ! あいつなら、僕の折れた右腕も一瞬で治せる! 帝都のヘドロだって、あいつが全部片付ければ、皇帝も僕たちを許してくれるはずだ!」
「そうです! あいつは追放されて『終末の廃棄谷』にいるはず! あそこへ行って、あいつを捕まえればいいのです!」
「そうだ……! あいつは所詮、僕たちに逆らえないただの従順な奴隷だったんだ! 『昔の仲間に免じて助けてやるから、また僕たちの下僕として雇ってやる』と言ってやれば、泣いて喜んで僕の腕を治し、帝都のゴミを片付けるに決まっている!」
「そうですとも! あの平民め、今頃は荒野で飢え死にしそうになって、我々の慈悲を待っているに違いありません! 再雇用の契約書にサインさせてやりましょう! 腕を治させたら、また以前のようにタダ働きで酷使してやればよいのです!」
「フハハハハ! 見ろ、バルト! あの毒煙の向こうに、微かに緑の光が見えるぞ! あそこにあのゴミ拾いがいるんだ! 待っていろよロイド、僕たちのご主人様が直々に迎えに行ってやるからな!」
乾ききった唇を歪め、醜悪な笑い声を上げる二人。
骨折した腕を泥に引きずり、破れたズボンから血を流しながら、二人は這うようにして最果てのエデンを目指して進み始めたのだった。
自分たちを待ち受けているのが、かつての奴隷からの無慈悲な鉄槌であることなど、夢にも思わずに――。




