第31話:帝都の完全麻痺~王宮のシャンデリアから汚泥が止まらない~
エデンが笑い声と幸福に包まれている頃――。
オルディス帝国の皇都は、もはや『国家の崩壊』というべき未曾有の阿鼻叫喚に沈んでいた。
ロイドを「無能なゴミ拾い」として独断で追放してから、わずか三週間。
帝都の地下深層に鎮座する中央魔導炉『ヘル・ゲート』は、唯一の抑え手を失ったことで炉壁の耐魔煉瓦が限界まで融解し、内部で圧縮されていた数百万トンの紫黒色の猛毒ヘドロが、地下排水網を完全に粉砕・決壊させていたのだ。
その結果、地上のあらゆるマンホール、街頭の噴水、貴族邸の給水栓から、一日あたり数十万トンに及ぶ汚泥ヘドロが、間断なく間欠泉のように噴水となって吹き荒れていた。
かつて『大陸の至宝』と称えられた帝都の美しい白亜の石畳は、いまや一面ドス黒いヘドロの海に呑み込まれていた。
中央大通りは膝の上まで汚泥が堆積し、歩くことすらままならない。
地下の下水路が決壊したことで、有毒ガスに追われた数百万匹のドブネズミや巨大害虫が地上へと這い出し、逃げ惑う市民の足元を覆い尽くしている。
馬車は車軸までヘドロに浸かって動けなくなり、乗り捨てられた無数の豪奢な馬車が腐敗した泥水の中で傾いていた。
さらに凄惨を極めていたのは、貴族街の大邸宅だった。
ヘドロから立ち上る強酸性の有毒ガスが、大理石の彫刻や金箔の門扉をドロドロと音を立てて溶かし、壁面には黒カビのような不気味な文様がびっしりと繁殖。
家宝の絵画は酸で焼けただれ、自慢の庭園の薔薇は一夜にして黒く腐り落ちた。
大貴族の貴婦人たちは、高価な香水を全身に丸ごと一本浴びながら、「息ができない!」「ドレスが汚れる!」とヒステリックに叫び、宝石箱を抱えて泥水の中を裸足で逃げ惑う始末。
どれほど高価な香水を部屋中に撒き散らそうと、窓を目張りして締め切ろうと、喉を焼き、肺をえぐるような強烈な硫黄と生ゴミの悪臭からは逃れられない。
呼吸困難と嘔吐で倒れる市民や近衛兵が続出し、薬草や解毒ポーションの価格は金貨数百枚にまで跳ね上がり、経済は完全にマヒ。
怒り狂った市民たちは連日、皇城の前に集結し、角材や松明を手に大規模な暴動を起こしていた。
「悪臭を止めろ!」「街を元に戻せ!」「無能な皇帝を引きずり下ろせ!」
投石と怒号が飛び交う中、皇城の内部もまた、生き地獄の様相を呈していた。
ピチャ……ピチャ……ドチャッ!
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ! ま、また落ちてきたぞぉぉぉっ! 誰か傘を差せぇぇぇっ!」
豪奢な大理石の謁見の間。
天井に吊るされた純金とクリスタルの巨大シャンデリアの隙間から、紫黒色のネバネバとしたヘドロが、雨だれのようにボタボタと絨毯の上に落ちてきていた。
酸性のヘドロが触れた瞬間、最高級のペルシャ絨毯がジュージューと音を立てて煙を上げ、真っ黒な穴が広がっていく。
シャンデリアの留め金は酸で腐食し、今にも頭上から落下しそうにギシギシと不気味な軋み音を立てていた。
玉座の上で、防毒マスクを三重に装着した皇帝アルブレヒト四世が、目を真っ赤に充血させ、脂汗と涙を流しながらガタガタと震えていた。
かつてロイドの存在を知りながら、「平民風情に給与を出す必要はない」とバルトの横領を黙認していた皇帝自身が、いまや自らの撒き散らした業火の汚泥に焼き尽くされようとしていたのだ。
「おのれ……おのれぇぇぇっ! ガストン子爵はどうしたのだ! あのゴミ拾いの平民を引きずり戻すために出撃したはずの、我が重装装甲部隊は!」
「へ、陛下……! ガストン子爵は先ほど、部隊五十名全員がパンツ一丁の姿で這う這うの体で逃げ戻ってまいりました! 『あいつは化け物だ! 指先一つで最新鋭の戦車も重装鎧もすべて部品に分解された!』と叫びながら、自室に引きこもって錯乱しております!」
「ぶ、無能どもがぁぁぁぁぁっ!!」
皇帝は泡を吹いて卒倒しかけた。
「魔導師団は全滅、近衛兵も使い物にならん……! このままでは、我が帝国がゴミと悪臭で滅んでしまうではないか! 誰か……誰かこの危機を救える英雄はおらんのかぁっ!」
宮廷内務省の役人たちは、自分たちの責任を隠蔽するため、ロイドの解雇記録や過去の管理日誌を暖炉に投げ込んで灰にしようとパニックを起こしていた。
その時、宮殿の回廊の陰から、青ざめた顔で爪を噛みながらその様子を覗き込んでいる男がいた。
大魔導伯爵バルトである。
ロイドを「無能のゴミ拾い」として独断で追放した張本人。
いまや宮廷中のすべての貴族から「貴様が無能をクビにしたせいで国が滅びかけたのだ!」と糾弾され、爵位剥奪と死刑判決が目前に迫っていた。
「くそっ……! くそっ、くそっ! どうしてあんなゴミ拾い一匹がいなくなっただけで、こんなことになるんだ……! このままでは、私がすべての責任を被されて処刑されてしまう……!」
バルトは冷や汗を滝のように流しながら、救いを求めて勇者レオンの待機室へと駆け込んだ。




