第29話:神話の《生体骨格分子再構築》~痛みゼロの超速治癒~
「グルルッ……触るなと言っただろ……ッ! 近づいたら……喉笛を噛み千切ってやる……ッ!」
血を吐きながら威嚇するフェンネルに対し、ロイドは穏やかな笑みを崩さず、静かに檻の黒鉄の錠前に素手を触れた。
「――《瞬間原質解体》」
カチャリ……サワサワサワッ!
触れた瞬間、厚さ十センチを超える頑丈な黒鉄の格子が、まるで手品のように音もなくバラバラに分解され、ただのサラサラとした鉄の微粒子となって地面に崩れ落ちた。
さらにロイドは手のひらを握りしめ、地面に落ちた鉄の粉末を《分子再結晶化》によって一瞬でまとめ上げ、純度百パーセントのミスリル魔導鋼インゴット十本へと錬成して物置袋へと仕舞い込んだ。
帝国が捨てた鉄檻すら、ロイドの手にかかれば瞬時に無駄のない高級資源へと生まれ変わる。
「なっ……!? お、檻が一瞬で……消えた……!? お前、一体何者なんだ……!?」
フェンネルが驚愕に緋色の瞳を見開く。
檻の支えを失った彼女の身体が、ドサリと赤茶けた地面へ崩れ落ちそうになった。
ロイドは身をかがめ、倒れ込むフェンネルの折れ曲がった華奢な肩を、両腕で優しくしっかりと抱き止めた。
フェンネルの身体から、強烈な熱気と脂汗の匂いが立ち上る。
四肢の折れた骨が筋肉を圧迫し、呼吸をするたびに肺と肋骨がきしむような激痛が走っているはずだ。
フェンネルの脳裏には、闘技場での絶望的な記憶がフラッシュバックしていた。
血に狂った観客たちの下卑た歓声。
骨が折れる鈍い音と、魔獣の鋭い牙。
『痛い、助けて』と心の中でどれほど叫んでも、誰も助けてはくれなかった。
人間は全員、自分たちを娯楽のために使い潰す冷酷な悪魔だと、そう信じ込んでいた。
だからこそ、ロイドが近づいてきた時、フェンネルは最後の力を振り絞って、自らの犬歯でロイドの首筋を噛み千切ろうと身を乗り出したのだ。
だが――。
「フェンネル、もう大丈夫だ。君はよく戦ったよ。……もう、誰も君を傷つけさせない」
ロイドの声は、春のそよ風のように穏やかで、慈愛に満ちていた。
ロイドの温かい右手が、フェンネルの砕け散った右腕、皮膚を突き破っていた骨の先端へと、そっと包み込むように添えられた。
フェンネルは激痛を恐れて全身の筋肉を硬直させ、ギュッと瞳を閉じた。
だが――そこに走ったのは、激痛ではなかった。
「――《生体骨格分子再構築》」
フワァァァァァァァァン……!
ロイドの掌から溢れ出したのは、まるで清らかな新緑の若葉が光り輝くような、澄み渡るエメラルドグリーンの粒子光だった。
その光がフェンネルの折れた四肢を包み込んだ瞬間、フェンネルは「あ……っ……?」と掠れた声を漏らした。
痛くない。
息を吸うだけで脳天を焼き焦がし、意識を失いそうだったあの地獄の苦痛が、まるで温かい毛布に包まれたかのように、サーッと潮が引くように消え去っていく。
ロイドの意識は、フェンネルの肉体のミクロの世界――細胞核や骨格の分子グリッドへと深くダイブしていた。
複雑骨折によって粉々に砕け散り、筋肉や神経に食い込んでいた無数の骨片。
ロイドの解体波が、それらハイドロキシアパタイトとリン酸カルシウム、そしてコラーゲン線維の分子構造を走査し、磁石のように引き寄せていく。
ミリ単位、ミクロン単位の精密さで骨の欠片が元の位置へとピタリと整列し、分子結合が瞬時に強固に再結合されていく。
さらに、引き裂かれた腱や神経線維をナノ単位で紡ぎ直し、筋肉内の内出血や化膿した浸出液を、体外へ無害な老廃物として排出。
パチパチ、コキコキ、カチッ……!
耳を澄ませば聞こえる、心地よい骨鳴りの音。
あり得ない方向へと不自然に曲がっていた両腕と両足が、みるみるうちに元の美しい直線と引き締まった筋肉のラインへと戻っていく。
「あ……あたたかい……? あたいの……手足が……骨が……全部くっついていく……!?」
「よし、骨の再結合と神経の接続完了。次は全身の裂傷と皮膚の再生だ」
ロイドはさらに解体波の周波数を微調整し、傷口の細胞分裂とコラーゲン生成を極限まで活性化させた。
ジュワッ、と心地よい白い蒸気が立ち上り、全身に刻まれていた爪痕、深い切り傷、そして焼き鏝による爛れたケロイドが、まるで水滴が蒸発するように滑らかに塞がっていく。
泥と血糊にまみれていた体毛からも、ロイドが不純物だけを瞬時に分子分解して吹き飛ばした。
わずか数十秒。
光が収まった時、そこに立っていたのは――。
傷跡一つない滑らかな小麦色の素肌と、朝露を浴びたようにキラキラと輝く、息を呑むほどに美しい純白の毛並みを持つ、しなやかな銀狼の乙女だった。
「ふう……完璧だな。手足の指を動かしてみてごらん」
「う……そ……だろ……?」
フェンネルは呆然と自らの手を見つめ、指をグーパーと握り直した。
立ち上がり、恐る恐る大地を踏みしめる。
痛みは微塵もない。
それどころか、闘技場で戦わされる前よりもずっと深く、大地の鼓動が足の裏から伝わってくる。
軽くトンと跳躍してみると、ふわりと三メートル近くも跳び上がり、猫のように軽やかに着地した。
全身に漲るのは、かつてないほど力強い生命力だった。
「た、立てる……! 跳べる……! あたいの足が……腕が……元通りになってる……!? 傷も……全部消えちまってる……!?」
信じられない奇跡に、フェンネルの銀色の耳が激しくピクピクと動き、豊かな尻尾がボワッと膨らんだ。
大粒の涙が、その緋色の瞳からポロポロと地面へと零れ落ちていた。




