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第16話:神話の《分子抽出解体》~呪毒だけを抜き去る奇跡の手~

ヒノキの清冽な香りが満ちるログハウスの一階。

 清潔なリネンが敷かれた大理石の施術台の上に、エルフの聖女セリスは横たえられていた。

 セリスの呼吸はますます浅くなり、時折、骨がきしむような激痛に全身をビクンと跳ねさせている。

 額には油のような脂汗が浮かび、首筋の紫黒いケロイドからは、今にも腐敗したような甘酸っぱい毒煙が立ち上りそうだった。

 常人の魔導医や高名な治癒術師が見れば、匙を投げるどころか、一目散に逃げ出すレベルの致死性怨念毒。

 もし通常の回復魔法や浄化光線をこの身体に注ぎ込めば、強すぎる魔力同士が体内で激突し、セリスの脆弱化した内臓や神経細胞ごと焼き尽くしてしまうだろう。

 だが――ロイドの力は、世界を満たすあらゆる物質の『設計図』を見通し、自在にほどく神話の技術だった。


「セリス、聞こえるか? 少し身体がカッカと熱くなるかもしれないが……すぐに楽にしてやるからな」


 ロイドはセリスの冷たい額に左手を添え、優しく声をかけた。

 そして、右手の手のひらを、彼女の心臓の真上――もっとも呪毒の濃度が凝縮している胸元にかざした。


「――《原質分子選択抽出解体(モレキュラー・セレクティブ・エクストラクト)》!」


 キィィィィィィィン……!!


 ログハウスの空気を震わせ、人間の可聴域限界を超えるような超高周波の共鳴音が響き渡った。

 ロイドの掌から溢れ出たのは、新緑の若葉のような、どこまでも澄み切ったエメラルドグリーンの粒子光。

 その光はセリスの衣服を透過し、皮膚をすり抜け、彼女の体内を巡るミクロの世界へとダイブしていった。

 ロイドの脳裏に、セリスの生体組織の完全な三次元構造図がミリ単位、ミクロン単位で展開される。

 赤血球が流れる毛細血管、網の目のように張り巡らされた神経線維、そして骨の髄や内臓組織。

 そのあらゆる細胞の隙間に、まるで黒い棘を持った無数の蔦のように、ドス黒い『呪詛の分子』がびっしりと食い込み、細胞膜を締め上げていた。

 貴族たちの悪意、怨嗟、死に至る病魔の残留思念が、魔導的な粘着性を持って生体組織に癒着しているのだ。


(よし……見えたぞ。セリスの細胞核と神経組織を完全に保護しながら――呪毒の分子結合だけを、一本ずつ丁寧に切り離す!)


 ロイドの集中力が極限まで高まる。

 ナノメートル単位の超精密ピンセットで、蜘蛛の巣から獲物だけを傷つけずに外していくような、神業のミクロ解体。

 プチッ、プチプチプチッ……!

 ロイドの意識の中で、呪詛分子を繋ぎ止めていた悪意の結合鎖が、軽快な音を立てて次々に切断されていく。


「あ……っ……ぁぁぁぁ……ッ!?」


 セリスの唇から、苦悶と、それを上回る圧倒的な解放感に満ちた艶やかな吐息が漏れ出た。

 ジュウウウウウッ……!

 セリスの全身の毛穴から、まるでタールのように粘ついた紫黒色の毒蒸気が、猛烈な勢いで大気中へと噴き出してきた。

 それと同時に――彼女の首筋から胸元、両腕を醜く覆い尽くしていた紫色のケロイドと血管の黒ずみが、心臓を中心にして、サーッと潮が引くように急速に薄れていく。

 黒く死にかけていた皮膚組織が、ロイドの解体波によって刺激され、驚異的な自己治癒力でみずみずしい細胞へと修復されていくのだ。


「ふう……っ! 体内毒素の抽出、九十九点九パーセント完了! 心拍数安定、呼吸正常値に戻ったぞ!」

「驚異的です、マスター」


 ルシアが目を見張り、モニター画面をロイドに向けた。


「セリス個体の生体データ、全ステータスが危険水域を脱出。中枢神経および内臓器官の機能が完全に蘇生いたしました。……しかしマスター、施術台の周囲に滞留しているこの紫黒色の怨念蒸気は、大気中に放置すれば半径十キロの動植物を死滅させる超猛毒です。直ちに中和廃棄を推奨します」

「いや、捨てるのは勿体ないな。せっかくこれだけの濃密な魔力エーテルが集まったんだ。……リサイクルしよう」

「……リサイクル、ですか?」


 無機質なルシアの瞳が、珍しく「何を言っているのか」と問いたげに揺れる。

 ロイドは施術台の上空に渦巻く、禍々しい紫黒色の毒煙に向けて両手を掲げた。


「――《原質分子再構築(リビルド)・超高密度安定結晶化》!」


 バチバチバチッ……!

 空中に青白いプラズマ放電が走り、ロイドの両手の間で、数万トンの呪詛エネルギーがギュギュッと圧縮されていく。

 ロイドは猛毒を構成していた硫黄や重金属の毒素結合を完全に解体し、大気中の微量元素と融合させながら、魔導エーテルだけを極限まで高密度化させた。

 やがて、部屋を満たしていた悪臭と毒煙は完全に消滅し――。

 ロイドの手のひらには、まるで夜空の深淵をそのまま溶かしたような、神秘的な漆黒の輝きを放つ、とろりとした液体が残されていた。

 ロイドはそれを、あらかじめ用意しておいた透明なガラス瓶へとトクトクと注ぎ込んだ。


「ふう、完成だ」

「マスター、その黒い液体は何ですか?」

「呪いの怨念成分を完全に中和して、純粋な魔力定着成分だけに組み直したんだ。魔法陣を描くための『超高純度魔力インク』だよ。これを使えば、通常の十倍以上の耐久性と魔力伝導率を持つ魔法陣が描けるし、古代魔導書の写本にも最高だ。帝都の魔法学園の教授たちに見せたら、小瓶一本で金貨百枚は積んでくる代物だな」

「……他者を呪い殺すはずの猛毒を、学術用の最高級インクへと転換するとは。マスターの解体技術は、もはや神話の領域と定義せざるを得ません」


 ルシアが淡々と、だが心からの敬意を込めてお辞儀をした。

 ベッドの上では、すっかり苦痛から解放されたセリスが、規則正しい寝息を立てて穏やかな眠りについていた。

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