018 慈愛の縫合
――――コンコン。コンコン。扉がノックされる。私はいつものようにそれを無視して、お母さんが入ってくるのを待っていた。
クローゼットの中で人形を抱えて、お母さんのことを今か、今かと待ち構える。最近ではお母さんも驚かされるのに慣れて来て、私も色々と悪戯を考えるのに必死だ。
「愛海。ご飯よ。」
「……くしし。」
「も~、今日は何処に隠れているの。」
ご飯。その言葉に思わず私は飛び出したくなるけれど、我慢我慢。ここで飛び出してしまえば、お母さんの驚きも半減以下になってしまう。
ついつい忍び笑いを漏らしてしまったけれど、お母さんは気づいていないみたい。ベットの下なんて検討違いのところを探しているお母さんを見ると、私はまた忍び笑いをしてしまいそうになって、慌ててお口に人形を押し付けた。
「ん~、どこかしら。……後はクローゼット?」
じりじり、じりじりとお母さんが寄ってくる。お母さんがクローゼットの扉を開けるのを今か今かと待ち受ける。開けた瞬間にばっと驚かせてあげるんだ!
お母さんがクローゼットの扉に手をかけた。……。そ~れ、もうすぐだ。もうすぐだよ~……
――――ピーンポーン。その時、家のチャイムが鳴り、お母さんはクローゼットから手を離してしまった。そして、そのまま扉の方へと向かっていってしまう。
な~んだ、もう。タイミング悪いなぁ。ご飯、食べにいこうっと。
がたんと一階から大きな音が聞こえる。私はびくりと身体を硬直させて、クローゼットの中に留まった。何が起こったか分からないけれど、私はここにいた方がいい気がする。
そうじゃないと、致命的な何かが起こりそうな。そんな予感。私は服に包まれて、懸命に気配を消す。お母さんが昇ってくるなら、驚かしてあげればいいんだ。くしし。
――――トントン。二階に上がってくる足音が聞こえてくる。どうやら誰かが、おそらくお母さんがまた私を呼びに来たのだろう。
でも、いつもよりどこかゆったりとしたリズムで、重い音のような。ぎしりと木の階段が軋む音に私はびくっと身体を震わせる。
「お~い、誰かいるか~い。」
見知らぬ男の声。誰の声かもしれない軽快な声。でも、その声質は粘着テープのようにねちゃねちゃしている。気持ち悪い。
息を潜めて私は男が立ち去るのを待っている。だけど、男は私の部屋の前で足を止めたようで、ドクンドクンと部屋に響きそうなほど大きく私の心臓が鳴り響いている。
早くなる鼓動に比例して、息を吸い吐く感覚も短くなる。ドクンドクン。スーハースーハー。どうなっているのだろう。これからどうなるのだろう。
「入っちゃうよ~。」
……ついに男が部屋に入ってくる。男の顔を確かめる気にもなれずに、私はクローゼットの中でただただ息を潜め続けている。ただの悪夢なら、覚めてくれと祈りながら。
恐怖に身体は震えそうになり、カチカチと歯が接触し合う。
怖い。怖い。怖い。真っ暗なクローゼットの中は今の状況を如実に表しているようで、私はこの空間から出てしまいたくなる。
「ベット、クローゼット、机の下。くふふ、どこだろうね~。」
クローゼット。その言葉に思わず私はびくりと身体を跳ねさせた。それでも大きな音を出すことはなく、私は必死に息を止めて男が立ち去ることを祈っている。
男が部屋中を歩き回る音がする。ベットの軋む音が聞こえる。椅子を引く音が聞こえる。そして、クローゼットに近づいてくる音がする。
「ん~、どこだろうね~。……後はクローゼット?」
はっ、はっ、はっ。お母さんと同じような言葉なのにどうしてこんなにも違うのだろう。どうして、こんなに恐ろしいのだろう。
男がクローゼットに手をかけて、ギギィという音を立てて、クローゼットが開かれた。
「……いないねぇ。」
クローゼットは閉じられ。私は安堵の息を吐いた。恐る恐る服の中から顔を出そうとその瞬間。
――――バンッ。突然大きな音を立てて、クローゼットの扉が開かれた。ドクンと一際大きな心臓音が鳴り響き、私は身体を硬直させるしかない。止まった息に頭はくらくらとしだして、思考もまとまらない。
「……。」
男は去っていった。空きっぱなしのクローゼットの扉だけど、私はその中から飛び出す勇気はなくて、結局、男が家から出て行ったのを音で感じるまで、その場に座り込んでいた。
男は一階でごそごそと何かをやっていたようだけど、私は何も動けなかった。どうにもできない自分は情けなくて、涙を流しそうだった。
それでも、泣いてしまえば私の存在がばれてしまいそうで、怖くて、怖くて、何もできなかった。
「何だったんだろう……。」
恐る恐る窓の外から男の姿を確認する。男は何処かご機嫌そうで、足早にどこかへ立ち去っていった。角を曲がり、見えなくなったのを確認すると、私は部屋の扉を開き、とんとんと一階に降りていく。
一階に近づくにつれて心臓の音が早くなり、呼吸が浅くなる。それに、異様な匂いも。私の知らない匂い。
「おかあ、さん……?」
お母さんが机の上で寝ている。服も着ないで何をやっているんだろう。それに、ケガもしているみたい。地面を真っ赤に染める液体は私も知っている。血だ。
水たまりみたいな大きな大きな池。机の上に投げ出された身体から、腕を伝って血がぽつり、ぽつりと水たまりに零れ落ちていく。
水たまりを踏まないようにぴょんっと飛びながら、机へと近づいていく。
「ねぇ、お母さん。どうしたの?大丈夫?」
お母さんが返事をしない。疲れているのかな。それとも人形さんと同じように傷が出来ているから、動けないのかな?
お母さんが前に言っていた。人形さんも、傷を縫い付ければまた動くようになるって。だから、お母さんも動くよね?ただ、寝ているだけだもん。傷を縫い付ければきっとよくなる。
ぽちゃんぽちゃんと血が零れ落ち、私の服に赤が移る。
「どうしよう。私、縫い付け方なんて、知らないよ。……そうだ!!お母さんの部屋にお裁縫道具があるって言ってた。」
私は急ぎ足でお母さんの部屋に向かう。途中で水たまりを踏んじゃって、私の服がびしょ濡れになっちゃったけど、お風呂に入れば大丈夫だもんね。
よ~し、お母さん。待ってってね。私が直してあげる。
だから、早く目を覚まして、よくなってね。
お母さんの部屋は奇麗なまま。でも、私の服から滴る赤で汚しちゃっている。家を汚しちゃうと、お母さんに怒られちゃうけど、でも、お母さんを直すのが先だよね。
確か、タンスの中に裁縫道具はあったよね。偶に人形さんを直すときに見ていたから、場所はばっちり。
「あった!!ハート型の裁縫道具入れ。今度、私にあげるために買ったって言ってたの。まずは裁縫を教えてあげるね。って言ってたけど、遅いよ。もうっ。」
私は抱えるには大きな裁縫道具入れを懸命に抱えて、とてとてとお母さんの方へと向かう。ぴちゃりぴちゃり。水が零れ落ちる音が絶え間なく響くけれど、私は構わずお母さんの方へと向かう。
これで、直してあげられる!!これで元気になってくれる!!
「えっと、こうして、こう?」
お母さんの様には上手くできない。ちぐはぐだらけな縫い目。でも、ちゃんとパクリと開いた傷は閉じている。これできっとお母さんは動いてくれる。
一つ、二つ、三つ。お母さんのほぐれを私が縫い付ける。これがお母さんを救う方法だから。これが助ける方法だから。
「よしっ、完成。」
もう、辺りは暗くなっていた。滴り落ちる水の音も止み、しんとした静寂だけが部屋を支配していた。
ちゃんと直ったはずのお母さんだけど、どうしてか動き出さない。なんでだろう?
「ただいま~。電気点いてないけど、どうしたんだ?」
「あっ、お父さん!!お母さんが動かないの。ちゃんと直したんだけど。」
「……え?」
お父さんは何故か慌てたようにリビングへと向かった。あっ、水たまりを避けるのを忘れている。お父さんの靴下が濡れて、跳ねとんだ水で壁が真っ赤に染まる。
ぱちり。電気が点いた瞬間、お父さんは崩れ落ちた。
「どうしたの?」
「……あ、あああぁああああああ」
どうしてかお父さんが叫んでいる。絶叫している。辺りに響くお父さんの声はうるさくて、耳を塞ぎたくなる。けど、どうしてかお父さんの姿を目に焼き付けてしまう。
たぶん、お父さんは知っている。どうしてお母さんが動かないか。私は分からないのに。
「こ、これ、どう、したんだ。」
「え?知らない男が入ってきて、こうなってた。」
「あぁあ、どう、して……」
お父さん。悲しそう。私がどうにかしなくちゃ!!お母さんが動けば、お父さんは喜ぶよね。お母さん、直したんだから動いてよ。
さっ、お母さん。私たちのお母さんなんだから、しっかりしないと。
「“慈愛の縫合”。」
自然と私の口から言葉が零れ落ちた。お母さんから滴り落ちる水滴のように、水たまりから跳ねた水しぶきのように。自然と、必然と。
その瞬間、お母さんは動き出す。どこか歪だけど、確かにお母さんは動き出した。
「……え?」
「お母さんが直ったよ!!」
「は?……ははは、そうか。そうなんだな。お母さんが直ったんだな。あはは、あはははは。」
これからも、家族は楽しく暮らすんだ。さ、まずはご飯を食べなくちゃ!!私もお腹がペコペコだよ。
ね?お母さん。一緒にご飯食べよう。




