お前、俺の妻になれ(2)
大王の本殿を下がった後、その先の戻り道の小殿の中へ、海人様は私の手を引いて入った。貴族の待機所のひとつであるが、今日はどなたもおられない。
入り口から離れたところまでくると、肩を引き寄せ背に腕を回される。
「さき」
「念押しをされてしまいました」
大王のふたつめの条件は皇女を娶ること、それをゆめゆめ忘れるなという警告であった。
「義務のみ果たす」
「そのような」
「お前の他の妃は愛でぬ」
「ふふ、お相手の皇女だって、泣きながら嫌々貴方に嫁ぐかもしれませんのに」
「はは、そうだな、自信が過ぎた」
そんなことがあろうか。血筋も見目もとびきり良い、凛々しく聡い皇子様に嫌々渋々、嫁ぐ女がこの飛鳥にいるだろうか。いるはずもない。
だが、そのように軽口でも言っていないとまた恨み言が口から溢れ出てしまう。それにたとえ私が皇女だったとして、皇子の妻が1人のみなどあり得ない。私が女大王であれば、また話は変わるのだろうか。
『さき、妻になれ』
海人様の求婚に、あのとき私はこう答えた。私はゆっくりと思い起こす。
◇
「海人様は、私の思う人にございます」
「ならば」
返事を聞いて、私を抱きしめ口元を寄せてくる海人様を、両の手のひらで遮って話を続ける。私の答えは「はい」に決まっていたのだが、それでも私の心にある引っかかりは伝えたかった。
「大王は」
「なんだ」
「夫がお二人ございます」
「何を言い出すかと思えば。天渡りは別であろう」
「ふつう女であればそれでも指をさされます。尊き方々は羨ましいことです」
「さき」
「鏡王の領内におれば、女ながら、私が選ぶほうなのですよ。わが家には男のきょうだいがおりませんので」
「お前が継ぎ目か。お前の物言いの粗さはそこから来ておるな」
「はい、きっと」
出仕してからうすうすと気づいたがおそらく父や祖父は推古朝まわりの縁者だろう。女の私をここまで自由にさせたのは、世を圧倒した女大王の統治を目の当たりにしたからと思える。
「領で女王になるなら、女大王のもとで学べという思惑だったかもしれません。ですが、無骨な私がすぐさま縁づくなど鏡王は思いも寄らなかったことでしょうね」
「お前は無骨ではないよ」
海人様は私の髪を撫で上げる。
「まず声がいい。その揺らぎは一体なんだ。艶やかで深く、神の声があったならきっとそれだったろう。私はお前の言葉を聞いていると、力が湧き出でるような気さえしてくる」
「海人様以外にそのようなこと誰も言いませんが」
「ならばよい」
海人様の目が少しだけ細く鋭くなってこちらを見る。
「なあ、さきよ。おれが願った通り、男と口をきかず過ごしているか」
「はい」
海人様の眼光にいささか恐れをなして、すかさず「はい」と答えてから、学師の使いの下男は男に数えなくてよかったろうか、と迷いが生じる。
たまに倉にふらりとやってきては、先生の名と書名だけをぼそぼそと呟き、それを私が倉から探して手渡してやると、礼も言わずに帰っていく男がいた。
まれにその書名が間違っていて、正しい書名を言い返すと、はっとして「それを」とだけ答えた。あれは口をきいたと言えるだろうか。いや、本の名前しか言っていないのだから、口をきいたうちに入らないだろう。
私は誤魔化すように話をつなぐ。
「それで、声のほかには私のどこに惚れたのですか」
海人様は鋭い目の光をすっと消し込んで、柔らかく微笑んで教えてくれた。
「髪も、肌も、漢詩が読めるところも」
髪と言いながら髪に、肌と言いながら頬に、漢詩が読めると言いながら口に、それぞれ口の端を寄せて触れてくる。
「それから、お前が生む安らぎも。時代がこれほど動いている今、皇子であっても命が軽い。おれを前から知っていて、直截な性で裏表がなく、気を許せる相手のそばにいたいと思うのは当然だろう」
安らぎと言いながら、海人様は私に肩にもたれかかってくる。
「それにお前の家とは利も害もない。それも嬉しいことのひとつである。お前は位を気にしているが、少しの時の狂いでお前だって皇女となり得たろう。飛鳥宮の内側に入れる者なら、遠近あれどみな神の子孫なのだ。皇統など、いつどこに転んでもおかしくはない」
本当にこの人は、達観して、幾代も時代を見てきたようなことを言う。これも天眼とやらの異能なのか。
「今日の変で、政の支配は大きく変わる。今朝の大王もいつまでご在位されるか定かではない。風向きが悪くならぬうちに、お前を娶る許しを請いたい。おれはお前をどうしても妻に欲しいのだ。進めて良いか」
海人様の畳み掛けるような懇願に当てられ、その熱にうかされて、私は少し掠れた声で「はい」と答えた。




