序) 妖転、蘇我入鹿
御首がその場からいなくなり、離宮に静寂が訪れる。震えが収まり、私はようやく口を開いた。
「海人様、いったい何があったのでしょう」
「政変よ」
「なんと」
「おれもあの場にいては割りを喰ったかもしれん」
「お見通しですのね」
「ああ、見通せる、空か人のすることならば。これがおれを助けてくれた」
海人様は腰から何やら小袋を取り出して、その中のものを見せてくれた。四角い手のひらの大きさの盤で、干支と星が描かれている。
海人様はその盤面を指先でくるくると回してみせた。先ほど私の口にした動きと似ているなと思ってその指先を眺める。
「神の声の占いでございますか」
「占いといえば似ているが。おれのは天文や数術に近い。これはくだんの唐帰りが密かに寄越した」
海人様は唐物の盤を、そっと私に手渡して見せた。木を掘って作られており、厚みはなく表は艶めくよう塗り物が施してある。
「神の声ならばわれらより蘇我のほうが強く濃く持つ。お前だって、先ほどの首の妖気を見たであろう?」
「はい、凄まじい念でございました」
「妖転したが、あの神気は見事であった。となるとおれの祖が神の直系だとは、いささか怪しいな。いいや神々のあらましを否んでいるわけではないよ。あれほどの力はないということだ。真に神力を持つ者ほど歴史に隠れたのだ、たとえば」
海人様はどなたかの顔を思い浮かべて、哀愁の色を見せた。
「山背の君はそうであったろうな。蘇我の血もお引きになる。厩戸の君の人望に、蘇我の神力まで備わっては誰も敵うまい」
海人様はゆっくりとまばたきをする。
「ゆえに狙われた」
海人様は視線を落として言葉を続ける。
「蘇我にしても表舞台に企みを持ち込まざらば、長く世を牛耳ったであろうに。氏同士の諍いが荒ぶりすぎた」
この方はご自分を神力が乏しいと仰せになるが、果たしてそうであろうか。数え十五でこのように聡い見通しをする者を、皇子様であっても見たことがない。
推古朝の厩戸様が振りまいた美談は、今の世にも隅々まで触れ渡っている。しかし厩戸様が特別なのではない。元来、皇子様は心が透き通るほどにお優しい方々ばかりなのだ。
太古の時代には、互いに大王の座を譲り合って、どなたも即位されない時世すら何代か在るという。それが今では奪い合いが常の事。
いつから大王の称号が利権特権になってしまったのだろうか。
ひとつには財を溜め込めるようになったこと。持てる財の上限が無尽になった。
それから人々に見通しの力がついたこと。以前は一年一年をただひたすらに生きていた。
人々は先のことを考えるのは遠くて来年の同じ季節がせいぜいだった。それが今では蓄財が智を促し、智が先々まで蓄財の策を練り上げる。
海人様は万人にお優しい方とは言えないが、やはり幼少の頃は透き通るような御心をお持ちであった。私はその頃の海人様も知っている。衣食に困らぬ皇子様たちは無垢に生まれ無垢に育つ。しかし母殿を出る頃より、段々と俗世に塗れ染まっていく。
思考に耽っていると、ふいに海人様が私の肩をぐいと抱き寄せた。
「はは、また来たか」
海人様の視線の先を追うと、先ほど御首が開けた壁の穴があった。ややもするとその穴を塊が剛速で通過する。先ほどと同じくどおんと大きな音を立てて、御首は離宮の床に着地した。
「まだおられたか。成仏されよ」
「いいや、まだだ。少し、皇子と話したい」
「ああいいよ」
海人様は立ち上がって奥から、御首に使う敷物を持ってきた。「私が」と手を出したが制される。
「異界に降りた者は神に等しい。そして神というものは多分に気まぐれだ。離れておれ」
敷物の上に御首を置き直すと、蘇我様は瞼を使って2回頷く。
「鎌足は中の君に目をつけた」
「そうであろうな。大兄には才がある」
「いいや三の君ではあやつの手に余るがゆえ」
そう言って海人様をじっと凝視する。
「皇子の天眼に問いたい」
「そのような大層なものではない」
「天になりかけているわれに、戯れは通らぬ」
そう言って、御首が急に奥にいた私のほうを見たので目があった。その面妖さに私はぶるりと身震いする。海人様は横に一歩するりと片足を踏み出し、御首の目線を遮った。
「よい、わかった。言ってみろ」
一転、御首は縋るように海人様に問いかける。
「蘇我はもう終わりか」
「終いだな」
「口惜しや。鎌足はどうか」
「千年続く」
「ああ悔しい悔しい悔しい」
御首はその場でどんどんと飛び跳ねて大太鼓のように音を立て続ける。
「蘇我は誰ひとり残らぬか」
「命はある。しかし政に本家は残らぬ。分家もじきに」
御首はがっくりと項を垂れて、床に表面をごつとぶつけた。海人様はまた御首の前につつと近づいて、顔を上下に戻して差し上げる。
「だが、蘇我部に名を捨てた隠れ子がおろう?」
「おったわ」
「後の世に東で地を慣らす」
「おお……おお……」
「蘇我は山背の君を逃したろう。斑鳩と東で隠れ子はその返礼を受ける」
「逃してはおらんが」
「生きておる」
「そうか」
海人様がにんまりすると、御首は決まり悪そうに顔をしかめた。
「仮にも皇子ぞ。行く末を自身に選ばせた」
「それはそれは。蘇我にしては甘いことだの」
「厩戸と山背の書が失せれば、それで良し。あれは民草に効きすぎる。 弥施訶や釈迦のように崇められては政に障る」
「ならば此度は蘇我の書も焼かれるな。輝く功もあったろうに」
海人様は慰めるように、御首に低く言葉をかける。
「鎌足が千年続くなら、われらは悪魂に伝わるか」
「だろうな」
「よかろう。史書から一切が消え去るよりは良しとする」
御首はふうとひと息ついた。蠢いていた黒髪の先が少しだけ白くなった。
「皇子よ、何か望みはあるか」
「何も」
「あるだろう、さあ」
海人様は少しだけ首を傾げて、それから心許なげに小さな声で願いを言った。
「好きな女と長生きがしたい」
「叶えよう」
御首がふうっと息をこちらへ吹きかけると煌めく星のような光が床上を舞った。光は私の元へも届く。光る風が収まると御首の髪は半分白くなっていた。
「これが最後よ。鎌足は何処か」
「われは本当に知らぬのだ。だが、人が妖から身を守らんとせば、神仏の袂だろうよ」
「飛鳥寺か」
首はとんとんとその場で軽く跳躍を始める。
「ほどほどにせいよ」
「もはやそこまでの力は持たぬ。天渡りの前に少しばかり脅してやるのみ」
にやと笑みを浮かべると、御首はまた勢いをつけ、ぴょんと跳ねるようにして壁の横穴を抜け、離宮の外へと飛んで行った。
静かになった離宮で衣擦れの音が響く。海人様は私のところへ戻り、膝を曲げて、顔を近づけてくる。また口と口を重ねようというのだろうか。
その前に私は海人様にお声をかける。
「天眼とは」
「忘れろ」
「無理なこと」
「どうしたら忘れる」
「世から去なくなるときに」
海人様はお怒りになるかと思いきや、
「ならばそれまで目を離せぬな」
そう優しく言って、頬を擦り寄せてきたのだった。




