お前、俺の妻になれ(4)
あの日、公儀を終えた大海人皇子は稲妻のように私の部屋に駆け込んできた。ドンドンと渡りの板が割れるくらいの掛け足で、扉が破れるぐらいの勢いで。
「さき、お前……無事であったか」
呑気に書を読んでいる私の姿を見て、海人様はほっとした様子で肩で息をしている。宮女は扉の前で平伏している。
朝ぶりに海人様の顔を見ることができ、嬉しさ反面、あの男の来訪を言わないと、と思ってかしこまって向き直る。
「海人様、お伝えすることが」
皆まで言わせてもらえず、飛びつかれた。それから力の限りきつく抱きすくめられて動けない。
「よい、言わずとも」
「しかし」
「聞きたくはない」
か細い声にぴんときて、私は海人様の頬を撫でる。
「触れられてもおりませんよ。話をしただけにございます」
「そうなのか」
「はい。一体何を言われたのです」
「いや……大兄に担がれた」
海人様は私を抱えている腕を緩める。
「話とは? 大兄はお前に何の話をしたのか」
「妻になれ、と」
海人様が固まった。瞳の真ん中が黒く大きく広がる。
「なんと返した」
「もう人の妻にございます、と言いました」
「まだ妻ではない」
「そうなんですよね」
あの方にはしれっと妻だと言い切ったのだが、私は海人様の宮に入ってはいるものの、まだ正式には妻ではない。本当は通いも何もまだ始まっていない。でもあの時はすらすらと嘘が口から吐いて出た。
政変やら遷都やらで、やるべきことが多すぎるというのもあるし、意外にも海人様が難色を示しているせいもある。
「今すぐにでもと思うが、熟さぬうちは体に悪い。せめて二八まで待つのが良いだろう」
「私はいつでも」
「無理をして子を産んだ女は、みな赤子と命を取り替えている」
眉を寄せてその事実を伝える海人様に、儚くなった女人たちを思う。まだ妻にも何もなっていないので、今いち具体的な感情が伴わないが、せっかく結ばれても、それを急いで海人様とお別れになるのは寂しいと思った。
「年が明けて難波の宮に渡ったら、きっと」
「はい」
「季節も暖かい頃が良いだろう」
「はい」
私が頷くと海人様は顔を近づけてきたが、ふとお顔を止めて、公儀を担うときの面構えになった。
「難波の新宮、すぐに在所を東宮から離さねば」
などと言い出して、口吸いもせず、表に出ていく支度を始めるので呆気に取られる。色恋しか好かぬ、などと御首に嘯いていた割には、色そっちのけで務めに邁進するきらいがあった。
一方で、あの方は。
ご公儀が第一のように見受けられるが、自分も主役である宮中の儀にも関わらず、それをほっぽり出して私のところへやってきた。
あの合理的で欲望的なところは乙巳の変を成し遂げただけあると思える。今世のしきたりを当然と思わないお考えも時代を超えた凄みがあった。
しかしどうしてずっと下男の格好などしていたのだろう。
「さきよ」
呼ばれて顔を上げた。
「今、違う男のことを考えていたろう」
「はい」
私は素直に返事をした。
外に出ようとしていた海人様がまた奥へ戻ってきた。遷都の手筈で頭がいっぱいになっていた海人様が私を気にし出したのだ。たまに他の方を思い浮かべるのも悪くない、そう思った。
海人様は先ほどすんでのところで止めた口吸いの、続きをずいぶん長くした。父上がなんだか良い匂いがするといった海人様の香りに包まれる。四つ足のような花のような、惑いの香りである。
「もし大兄に」
「はい」
「次に求められることがあったなら、決して拒んではいけないよ」
この人はなんてことを言うのだろう! その忠告にすっと心が冷えて、悲しくなった。自分でも顔が曇るのがわかる。
「さき、勘違いするな。私は皇位の上下でお前を譲るのではない。大兄は恐ろしい方である。人の命にさほど重みを感じていない。それは御身に対しても。もとよりそういう御方なのだ。ゆめゆめ大兄の心を損なうことの無きように」
「私の好きな人は、ずいぶんひどいお願いをなさるのですね」
「俺はただお前に生きていて欲しいのだ。他の男の妻になったとして、生きてさえいればまた会える」
「そんなの私は死にたいです」
「さき、お前の言葉には力がある。そのような言い様をしてはならない」
「私の言葉に力があるのなら」
「ああ」
「私は海人様の妻だと言いましたから、きっとそうなるのではないですか」
「ああ、そうだ」
そういって再び私を抱きすくめた後、「そのためにも、宮を急いで離さねば」と言い出して、海人様は本殿にお戻りになるので私は見送りに出る。
「お前も大兄の前でよく耐えた。助かった」
と平伏し続ける宮女にも優しく声をかけるので、ひどく叱られるのを覚悟していた宮女はさめざめと泣く。後から聞いたが、あの方の訪れに震え上がって、ろくにお取り次ぎもせず、逃げ出す宮女もいるそうだ。
大海人皇子も部屋付きの宮女も、皇太子様をことさら怖がり警戒する。私はそこまで怯えるものだろうかと思った。まだその時は、あの方の苛烈さを理解し切っていなかった。




