お前、俺の妻になれ(3)
飛鳥宮で、朱華の裳を見たのは海人様くらいだった。宮ごとに色が決まっているのだろうか。柔らかい朝焼けの空のようで、私はそれが好きだった。
目の前の男は、海人様と同じ朱華色をまとい、しかも上衣の作りはさらに上等で、刺繍や飾りがふんだんに縫い付けられている。
衣の色、怯えた宮女、海人様の宮に先触れなくやってくる不躾、もうこの方が誰だかわかる。
けれど私はふと魔が差して、下男と思い込んでいたときと同じような言いぶりで声をかけた。だって相手が名乗ったわけでなかったから。
「『国風』ですよね、先生が書き写されていたほうの」
「それを」
奥に返り所望の品を手にして、入り口のほうへ再び戻る。宮女は床にへばりつくように平伏していた。何も見ていない、何も聞いていないというふうに。
「詩経、国風、お手書き」
書簿にあった項目だけを読み上げて渡す。そしていつも通り黙って帰るかと思ったが、男は戸口から動かない。
相手が何か言うのを私は待つ。じっと見つめ合っていると男がおもむろに口を開いた。
「俺のほうが先に見つけた」
淡々と男は言った。書名と「それを」以外の言葉を初めて聞いた。喋れたんだ、と思った。
それにおもむろにようやく発したのが、子どもが拗ねたような物言いだったので、内心おかしくて仕方なかった。
「声をかけてくだされば良かったのに」
そう言うと男は意外そうな顔をする。
「巫女だと思った」
「巫女ではございません」
「そのようだな」
男は私を頭の先から順に眺めた。それからもう一度目を合わせてきた。「巫女でないならば」強い眼光をして男は言った。
「お前、俺の妻になれ」
さすが兄弟、同じことを言った。
「もう人の妻でございます」
静かにそう返す。男は小雀のように小首を傾げる。
「困ったな、俺は大海人も好きなのだ」
「私と同じでございますね」
そう言うと、高貴な男は微かに笑った。
「男は妻を二人持てるのに。どうして女は夫を二人持てないのだろうな」
心底不思議そうに男が呟く。その言葉が、やけに自分の琴線に触れた。その不均衡は私の中でずっと燻っていたものだった。私はこの男に初めて興味を持った。
貴方のお母上は二人、夫がおられましたよ、と口に出そうになって、でもそれは確実に大海人皇子の寿命を縮める気がして飲み込んだ。この男ならやりかねない。
「俺は辛抱できるかな?」
もう一度、私を眺め回した後、男の目が獣の目になった。
後ろでどさりと音がする。伏せていた宮女が、男の言葉に失神して仰向けに伸びていた。どう転んでも大海人皇子から処罰を受ける、それに血の気が引いたのだろう。
私はすかさず提案をする。
「これはもしもの話なのですけれど」
「なんだ」
男の獣の目が少し緩んで、好奇が優った。
「私のことが好きになったら」
「もう好きだ」
短く言われて思わず顔が熱くなった。気を鎮めて調子を整え、咳払いをひとつしてから話を続ける。
「私のことがどうしても好きで好きで堪らなくなって」
「はは、大層な自信だの」
男は楽しそうにしている。
「どうにも大海人皇子が憎くなったら」
「うん」
「お手にかけるその前に、どうぞ私へお知らせください」
「知らせばどうなる」
「お仕えしましょう」
「なんだ、妻ではないのか」
「二心は持たぬよう、そちらが大化の儀でよくよくお申しつけになったと聞きました」
男はしばし無表情が続いたが、急に弾けるようにお笑いになった。そのように屈託なく笑うお姿は、海人様とよく似ている。
「確かにそうだ。さすれば、皇の男は常に二心だらけだな。処さねばならぬ、俺も含めて」
笑い声が収まってまた部屋は静かになる。
「面白かった。いいだろう、今日は下がろう」
今日は、とはなんだ。また来る気か、と私は呆れた。さてお訪ねを海人様に伝えるべきか。
「大海人には俺から言おう」
心を読んだように、その方は振り返って、私に目配せをしてきたのだった。




