新大王のお妃選びと妻選び
「さき、よいか。終日ここから出るのではないよ」
そう言って海人様は袖で口元を隠し、私にそっと口を重ねた。柔らかく温かな海人様の口の先が当たる。私もこれに慣れてきた。
海人様の宮に一室をいただき、私はここで寝起きをしている。巫女の部屋も悪くなかったが、さすが宮様の本殿である。しつらいの趣向がよく、私まで雅な生まれであったかのような気になった。
「陰と陽を」
そう言われたときは口を開いた。
男と女の陰陽の気を交換して、体の調子を整えるのだという。初めてしたとき海人様はこれを私に触れるための口実だと言ったが、思い出したように「きちんと行えば効き目がある」などとまた言い出して、人がいないのを見計らっては口を重ねてくるようになった。
海人様は、十分に気を交換すると、口を離してすぐの距離で、密やかな話を私に伝える。
「新大王の皇后と妃が決まった」
「それはおめでたいことです」
私じゃなくて良かった。などと心に浮かんだら不敬だろうか。
しかし女人である以上、見ず知らずの大王の後宮に、何かの手違いで呼ばれてしまうことはある。なので目をつけられないよう、宮に篭っているよう海人様に言いつけられていた。
ただ面は知らずとも、姉妹や従姉妹を気に入って、ではもう一人、などということはあるので気は抜けなかった。
「皇后は間人皇女」
「まあ」
皇太子様の同母きょうだいである。それは、海人様の同母という意味でもある。
「妃は二人、左大臣と右大臣の娘である」
蘇我の出の方が、妃になられた。右大臣は蘇我氏である。しかし本家ではない。御首の入鹿様とは派閥も違い、乙巳の変では皇太子様を手助けした方なのだという。それを聞いて、蘇我豪族に対する嫌疑は晴れたように思えた。
けれど海人様が御首に伝えた言葉が気になった。蘇我氏の行く末を問われ「分家もじきに」海人様はそう言った。
左大臣が娘、小足媛様のほうは、譲位の前から新大王の妻であられたから、お二人の間にはすでに御年四つになる皇子様がいらっしゃる。
それを除けば、新しく立った皇后と妃、どちらも皇太子様ゆかりの方で、次代様は政治でも後宮でも着々と地盤を固めているようだった。
「妃がお決まりになりましたなら、そろそろ倉に書を取りに行っても?」
「ならぬ」
「なぜ」
「皇后も妃も皇太子が決めた。大王はきっと、夫人や采女は自分で選びたいとお思いになるだろう?」
もっともだった。そう言われては大人しくするしかない。何かの間違いで目を留められてしまわないように。
しばらくして、海人様は立后にともなう公儀のために宮を出てしまわれた。それで暇になったので、今朝も私は何度読み返したかわからない、手元に積んだ書をぱらと開き、読み返す。
そこへ来客がやってきた。誰だろう。
宮女が取り次ぎをする。自分もこの間まで宮女であったのに、私にも宮女がついた。地方豪族から出仕した娘で、てきぱきとして器量のよい子だった。
「お持ちの本を借りたいとのことですが」
取り次ぎから戻ってきた宮女の声が震えていた。
「ではこれを」
もう読み切った書の束を何冊か手渡そうと差し出すと、
「直に承りたいそうです」
と言って、今にも宮女が泣き出しそうだったので、その異様さに私みずから表に出た。この宮女はふだんから仕事ぶりがよく、このようにおぼつかない様子ば初めてだった。
まずは戸の隙間から、こっそりと来客相手を覗き見る。そこにいたのは、いつも倉で、本をぶっきらぼうに受け取りに来るあの下男だった。
海人様の宮に篭っていたから、長らく倉に戻していない本がある。書の続きを持ってこいと、主人からどやされたのだろうか。
私はいつものような気軽さで、戸を開けた。
だがしかし、戸を大きく勢いよく開けてから、私はその姿に目を見張る。その男が着ていた装束は、海人様がよく着ているそれと同じ色だった。
本編外メモ)
孝徳天皇 記録のある妻
皇后 間人皇女 ……父は舒明天皇、母は皇極天皇、兄は中大兄皇子、弟(年齢諸説あり)は大海人皇子
妃 小足媛 ……父は阿倍内麻呂/左大臣、子は有間皇子
妃 乳娘 ……父は蘇我倉山田石川麻呂/右大臣




