鏡王、婿様に惚れる
宮女がつつと皇祖母様に近寄って自身の口元に袖を当てる。
「いいよ通せ」
そう言って目を細めた先には、外扉があって、それがすっと開くと凛々しい正装の大海人皇子が入室した。飛鳥らしい長くのびた裾の、軽やかな薄衣がふわりと宙に浮いている。それほどに海人様の足取りは急いでいた。すぐに皇祖母様の正面に辿り着く。
「もう見つかった」
「お戯れを」
海人様はご自身の母上によく似た笑顔を、にこやかに貼り付ける。
「吉日の改元の儀、無事に執……」
「いらん」
皇祖母様は海人様の祝い言を遮った。
「では本筋を。皇祖母様のご縁組み、いささか押し付けが過ぎましょう」
「これはお前のためである」
「何のことでございますか」
「親の身のうち、子は知らず」
親と言いました、皇祖母様が。海人様が「男のようだ」と評したこともある御方だが、退位されて、少し雰囲気が変わられたようだ。
大王というのはそれほどに重い役で、人格をも形創るものかもしれない。
「鏡王は快諾したぞ」
「は」
父上は間髪入れず、従順に返事をする。海人様は二人のやりとりに眉を寄せている。
「せっかくだ、双方に結びを深めよ」
「もとよりその心算でございましたのに、皇祖母様が割ってお入りに」
海人様のことは無視して皇祖母様は父上にお声がけをくださる。
「鏡王、われら皇は神の血を重ねることで結びを強くしてきた。互いに血を入れ合えば、争いも丸くなる、わかるな?」
「は」
「ことに今世のわが皇太子は血に敏感である。自身と血を同じくする胤がおれば、その御方がお前も里も守るであろう」
「は」
皇太子、という言葉が出ると、海人様は微動した。ほんの微かな揺れだった。
皇太子様と血を同じくする、ということは海人様とも血が同じということだ。落とし子はどなたであろう。皇祖母様もしくは先々代の欽明朝の大王との繋がりとなる。
再び、つつと宮女が寄ってきて言伝をすると皇祖母様は「ん」と短く言って、私たちに流し目をして背を向けた。次のご公儀がお有りになるようだ。しゃなりしゃなりと小幅に歩いて小殿を退室なさる。今日は宮廷行事の装いで、ずいぶん装束が重いご様子だが、いつもは宮殿内を大股に闊歩なさっている。
尊き御方が部屋を出た後も、父上は低く低くひれ伏したままだった。
しばし時が流れる。
「鏡王」
「はっ!」
急に海人様から話しかけられて驚いたのか、お返事がやたらに大きくなった。その様子を見て海人様は父上のそばまで寄ってきて、片膝をつき、優しくお声がけされる。
「気を緩めておくれ。私のほうが願いごとをするのだから」
そう言われて伏していた父上が顔を上げると、目の前に海人様のお顔があったので、父上は後ろにのけぞり尻餅をついた。
「すまない、驚かせてしまった」
父上の背に腕を伸ばし、海人様は父上を労るように抱き起こす。私であっても今日はあのように触れられていないのに。
「ああ、ああ、もったいないことでございます」
父上のお顔が上気した。お待ちください、父上。なぜそのようにお顔を赤くするのですか。
父上が調子を整えるのを待ち、海人様は口上を述べる。それから言った。
「額田姫王を妻に迎えたい」
「は!ありがたきことにございます!」
海人様は苦笑いをする。
「鏡王は何でも受けてしまうからの。そちらの心の内でも良きことであるのか、わからぬ」
「まさかまさか、そのような! 皇子様には、私であっても嫁ぎたいほどにございます!!」
何を言っているのかと呆れたが、それを聞いた海人様は朗らかにお笑いになった。それこそ海の白玉がぽろぽろとお顔から溢れるように。
その美しい破顔に私も父上もしばし呆けた。それから父上は非礼を詫びる。海人様はそれを受け止めてから、本題の願い事を口にする。
「今、飛鳥は揺れておる。守りの為にも早々に姫を宮へ寄越してよろしいか」
「は!」
その答えに満足げに頷くと「後ほど遣いを送る」と言って、海人様も次の公儀に出向かれるため退席した。
我々のみになった部屋で、父上がようやく姿勢を崩した。
「お前の夫となる御方は、ずいぶん見目が良いのだな」
「はい」
素直に惚気を吐く私を父上は怪訝な目で見つめた。
「お前、騙されていないか」
「あり得ることでございます」
私がそれを否定しないでいると、父上は少しほっとしたように緊張した頬を緩めた。客観する私を見て、正気を保っているとわかり安心したようである。
「私でも惑わされた」
「私は惑わされておりますよ常に」
「だろうな。生まれてはじめて男であることを悔やんだよ」
父上が恋敵になるなど、耽っただけでも頭が痛い。壮年となったが父上も見目の良い方だった。私はそれを半分ほど引き継いだ。
「いい匂いがした。あの香はなんだろうな。私も同じものを賜りたいものだ」
「皇子様は香木を使いませんが」
「なんとなんと」
父上はことさら感心した。それからまた怪訝な顔になる。
「飽きられたら、いつでも鏡の里に帰ってきて良いからな」
「いやですわ、今からそんな」
父上と顔を見合わせて二人でくすくすと笑った。それからまた父上が真顔になって耳を寄せてくる。
「これはもしもの話だが」
「はい」
「もしも天の血同士が争うことになったらば。私は二の君に付こう。お前の婿様であるからな」
小声のそれを聞いた私は背筋がひやりとする。私は周囲を注意深く伺う。こんなこと誰かに聞かれでもしたら。
「まあそのときに、お前が里に突き返されていなければ、の話だが」
などと言って、また父上はにこやかな笑顔に戻った。




