閑話) あかねさすの歌は戯れか
あかねさす。額田王(姫王)代表歌の枕詞です。
額田王の「あかねさす」の歌は、研究や考察で、二人の天皇、皇子と額田の、三角関係を基にした情熱的な恋歌とされていました。私もその線で学校などで習った覚えがあります。
歌はこちら。
額田王
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
皇太子
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故にあれ恋ひめやも
(詳細は後書き欄へ)
しかしこの歌が酒の席でのお戯れだったとする説があるのを、最近になって知りました。これにがっかりした万葉ファンもおられるらしいですが、私は逆に、そうだったら、大海人皇子すごくメロいじゃんと思いました。
この余興説に乗った場合、二人はずっと細く長く仲のいい夫婦で、誰の妻かというと俺の妻で、公共の場でイチャコラしていただけ(もう大王の前でやめてくださいよね、みたいな。)という見方ができ、余興説がアリなら私は是非それを支持したいです。
現代ネット風に言うと、いい女いると思ったら俺の妻だった、みたいな。。
ただ宴会余興説の弱いところは雑歌だからを理由にしている点です。雑歌なのは、相聞よりも天皇参加の宮廷行事の方が分類として上位レイヤーになるのと、この時点では歌い手が天武天皇ではなく皇太子だからです。皇太子の恋歌よりも天皇の行事報告が仕分け情報として格上ってことです。
さらに言うと、この贈答歌の次の22番が、二人の娘、十市皇女について詠まれた歌なんです。
この並び、どうですか?どうみても家族紹介じゃないですか?あんな熱烈な歌を交換した男女の娘さんがこちらです、的な。
ということで20-21番も相聞と捉えるのが自然と考えています。
(22番の詳しい内容については後書きへ)
それでもこの宴席説自体はけっこう好きで、その論拠の解説文を楽しく読んでいるのですが、それはちょっと違うだろうと感じる部分がありましたので反論したいと思います。
それは、、40近い孫もいるような年の額田王に大海人は恋慕などしない。父母(祖父母)目線で、若い時分を懐かしんでいる、みたいな現役おりてます解釈です。
これは全然わかっていないですね、モテる男の心理を!
宴席の歌というポジションに乗った上で言うと、一見からかいを含んだようなキザな歌ですが、めちゃくちゃ本気なんですよ。モテる男ほど、冗談で試し撃ちをするんです。いけるかどうかを。
あかねさす、の時点で、額田は数え38なので実際には36-37歳くらいです。(年齢は不明で諸説あります)
この年齢を非現役と捉えるかどうか。……は個人のご趣味ご趣向として、大海人皇子の場合にどうだったのかと考えますと、大海人自身が皇極(斉明)天皇が38歳の時に産まれた子なんですよ!
(皇極天皇の年齢についても諸説ありますが、2回も在位した天皇なので数字は硬めです)
男性はまあまあのケースで、自分の母親が妻の基準値になります。母親が働いていれば妻が働いていても気にならないですし、母親が高齢出産なら、妻にもできると思う。
なので、大海人皇子にとって38歳は現役女性です。額田のことを茶飲み友達みたいには全然思っていません。酒も入っての振る舞いかもしれないけれど、あわよくば、の歌なのです。
しかも確実に二人は十代で出会っています。
若くして出会うと、年をとっても出会った時のままなんです。さらに額田の「あかねさす」をライブで聞いた後なんですから、痺れたでしょうね!
えっ好き!!惚れ直した!!と大海人皇子が盛り上がっちゃったとしても、何らおかしくありません。
あともうひとつよくある先入観が、古代で寿命が短いから40歳はもう人生の終盤だという考え方。
「平均」寿命は短いんです、古代中世は。ですが飛鳥時代でも毎日の食事の確保ができてしまう層は、長寿もあり得たと考えます。生活環境はむしろ現代人がわざわざ高いお金出して調達するオーガニックライフの再現に近い。神代で100歳とか150歳とか生きている記録は流石に眉唾ですが、古代で60代70代くらいまで生きた貴人の記録はおよそ時系列で破綻していません。
同じ古代でも平安くらいになると、政治的な早婚多産が推進されます。若さを求めるのはお好みではなく、政略です。
飛鳥では譲位が縦移動に固定されておりませんので、若い入内や若さを賛美する傾向はまだ弱いと考えられます。
また記録にある古代貴人の誕生年に照らし合わせると、私個人の見解としては、飛鳥時代の初潮年齢は遅めなのではないかと推測します。
今より粗食ですし、そもそも東アジアの古代人は体格が小さいです。物理で成長が緩やかであったか、知見から社会として十分に体が成長してからの出産が推奨されたか、など考えられます。
飛鳥時代の皇子皇女の母親の初産年齢を逆算するとけっこう十代後半以降なんですよね。平安や武家社会のような早婚をイメージすると適正年齢がズレ込む、ということはあると思います。
(その中で天武天皇と持統天皇は結婚が早い部類で、繋がりを急いだ印象があります)
なお初潮が遅いと出産可能年齢もそのまま後ろ倒しになりますから、少女の期間が長く、現代人が想像するより若々しい37歳の可能性もあるかもしれません。
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出典:奈良県立万葉文化館「万葉百科」
(2026年10月31日閲覧)
『万葉集』巻1-20
題詞)天皇の、蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王の作れる歌
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
あかねさすむらさきのゆきしめのゆきのもりはみずやきみがそでふる
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=20
題詞) 皇太子の答へませる御歌〔明日香宮に天の下知らしめしし天皇、謚して天武天皇といふ〕
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故にあれ恋ひめやも
むらさきのにほへるいもをにくくあらばひとづまゆゑにあれこひめやも
左注) 紀に曰はく「天皇七年丁卯の夏五月五日に、蒲生野に縦猟したまふ。
時に大皇弟・諸王・内臣と群臣、悉皆に従ふ」といへり。
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=21
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出典:奈良県立万葉文化館「万葉百科」
(2026年11月1日閲覧)
標目)
明日香清御原宮天皇代〔天渟中原瀛真人天皇、謚曰天武天皇〕
題詞)
十市皇女の、伊勢の神宮に参赴きし時に、波多の横山の厳を見て吹芡刀自の作れる歌
川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常娘子にて
かはのへのゆついはむらにくさむさずつねにもがもなとこをとめにて
(左注)
吹芡刀自は未だ詳らかならず。
ただ、紀に曰はく「天皇四年乙亥の春二月乙亥の朔の丁亥、十市皇女・阿閉皇女、伊勢の神宮に参赴く」といへり。
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=22




