第87話 予期せぬ来訪者
本格的に練習を再開してから、二週間が経った。
今日は土曜日。
土曜日は朝錬と夕錬の二回練習がある。
朝練の終わりに誠心道場に高齢の男性が突然やってきた。
何も話は聞いていない。
武田先生もポカンとしている。
そこへヒカリ先生が紹介してくれた。
「この人は、私の父です」
言うなり、急に口調ががらりと変わった。
「何しに来たと!」
ヒカリ先生は、普段は方言が出ることはないけれど、お父さんの前では出すようだ。
ついでに遠慮がないからか、言葉遣いが少し乱暴になるらしい。
美香さんが小声で耳打ちする。
「ヒカリ先生は私が中学生のときに、ここに移ってきたんですけど、昔は髪も赤く染めて、性格もちょっと怖かったんです」
チームスパークがなくなった後、次の道場を探さなければいけなかった。
千葉県にはたくさんの総合格闘技道場があるけれど、ここを選んだのは、二つの理由がある。
一つ目は、家から比較的近くて通いやすいから。
二つ目が、RFCバンタム級ランカーの佐藤ヒカリ選手がいるからだ。
アスカちゃんの闘う舞台がRFCなので、そこに近づくためには現役のRFC選手の下で練習したほうがいいと思ったのだ。
はじめての場所に行くと、誰しも緊張するものだ。
私がはじめて誠心道場を訪れたとき、ヒカリ先生が女神のような笑みで迎えてくれたのを覚えている。
先生の温和そうな姿を見てすごく安心できたのだ。
そんなヒカリ先生の意外な一面が私には面白かった。
いつも丁寧な口調だけど、こうしたくだけた調子でも話せるのだと。
ヒカリ先生も背が高いけれど、それに負けず劣らず、お父さんも背が高い。
190はありそうだ。
「お前のタイトルマッチが決まったゆうけん、プレゼントたい」
ヒカリ先生は前回の試合で右の拳を骨折しており、大晦日には間に合いそうにない。
ただ試合には勝利したので、王者とのタイトルマッチを約束されている。
お父さんがクーラーボックスからでかい発泡スチロールの箱を取り出し、ふたを開けると、大きな真鯛が出てきた。
「めでたいから、鯛ばい!」
ヒカリ先生は迷惑そうだ。
「だからって、こんなの困るわ!」
武田先生がフォローを入れた。
「まあ、うちに冷蔵庫あるから。でも大きいな。入りきるかな」
ヒカリ先生のお父さんは、すると別のバッグから包丁とまな板を取り出した。
「心配ないたい。ここでさばいて、ごみは持って帰りますたい」
「ひょっとして板前さんですか?」
私の質問に、お父さんは嬉しそうに答えた。
「そうたい。魚をさばくのはお手のものたい。テーブルか何かあると?」
武田先生が道場の備品の折り畳み式のテーブルを差し出した。
「あんまりマットを汚さないようにお願いします」
「心配ないですたい」
言うなり、慣れた手つきで鯛をさばいていく。
そうして見事は鯛の刺身ができあがった。
練習を一時中断してみんなで刺身をいただくことになった。
「おいしーい」
お世辞抜きにおいしかった。
ヒカリ先生のお父さんが私のほうを向いた。
「お嬢ちゃんの試合も見たとよ。えらい根性あるたいね」
ヒカリ先生のお父さんが言っているのは、おそらくトギシ選手との試合だろう。
「ありがとうございます。実は私も、タイトルマッチを控えてるんです」
「おお、こりゃすごか」
ヒカリ先生も話に加わる。
「道場に二人のチャンピオンが誕生するけえ、期待しとって」
すると急にお父さんは、上を向いて涙を流した。
「どうしたんですか?」
私の問いかけに、お父さんは語りだした。
「思えば、ヒカリはえらい悪ガキでのお。親に反抗しっぱなしで、家出同然でうちを飛び出したときは、将来ろくな人間にならんと思っとった。それがこんなに立派になって……」
ヒカリ先生が口をはさんだ。
「余計な話、せんでよかと!」
慌てるヒカリ先生がおかしくて、みんな笑った。
先生のお父さんが帰ると、今日は練習をするという雰囲気ではなくなった。
でも私はまだ練習したかった。
「ヒカリ先生、もう少し練習に付き合ってもらっていいですか?」
「よかよ。じゃなくて、いいわよ」
先生は快く引き受けてくれた。
練習前に、私は気になっていることを話した。
「チームアナコンダの出稽古で、麗艶さんに私がアスカちゃんより優れている点が2つあると言われたんです。一つ目がセコンドの声に耳を傾ける素直な性格と言われたんですが、もう一つが分からないんです。アスカちゃんの目標の高さがヒントらしいんですけど」
ヒカリ先生もいっしょに考えてくれた。
「新藤選手の目標、たしかアルティメットフォースのチャンピオンよね。だとすれば無理に適正体重でない階級で闘っているということかしら」
アスカちゃんは背は私より高いが、決してがっちりした体格じゃなく、おそらく減量次第ではストロー級より下の階級でも闘えると思う。
そうしないのは、アルティメットフォースで一番軽い階級がストロー級だからだ。
「でもそれは私にも言えるような。私も以前、アトム級に落とそうと考えていたときもありますし。結局、アスカちゃんを追いかけることにしたので、ストローで闘ってますけど」
先生は「そうね」と言ってから、考え込んだ。
私はふと思い出した。
「そういえば、つい先日、お寺で石段ダッシュしているときに、アスカちゃんとばったり会ったんです。そのときに、今回は、ただ勝つだけじゃなくて、試合内容も問われると言ってました」
ヒカリ先生が顔をあげ、言った。
「ひょっとすると、すでにアルティメットフォースからオファーが来ているのかもしれないわね。実際、RFCでチャンピオンになったけど、アルティメットフォースからのオファーを優先して防衛戦を一回もせずに、移籍した選手もいるから」
私とアスカちゃんのタイトルマッチは、すでに公式で発表されている。
もしヒカリ先生の言う通りなら、私と防衛戦を1回してから主戦場を移す計画なのかもしれない。
「もしそうなら、踏み台にはなりたくないですね。私にもプライドはありますから」
ヒカリ先生は強くうなずく。
「あくまでも仮定の話だけど、ありうる話ね。それと、麗艶さんの目標の高さが弱点という言葉を考えると……」
ヒカリ先生は「分かったわ!」と叫んだ。
「何ですか? 私のアスカちゃんより優れてるところは?」
すると質問には答えずに、ヒカリ先生は「グローブをはめて準備して」と指示をしてきた。
「実際に体験したほうが早いと思う」
私は指示に従った。
そしてヒカリ先生と向かい合った。
いったい何が行われるのだろう。
すると、いきなりヒカリ先生がタックルを仕掛けてきた。
私は不意を突かれ、下になった。
そこから寝技の展開になるかと思いきや、上になったヒカリ先生が距離をおいて立ち上がった。
そして高くジャンプすると、足を踏み下ろした。
ものすごい衝撃音が私の顔の横で響いた。
「これが答えよ」
踏みつけだ。
私はハッと目を見開いた。
そうか。そういうことか。
だとすれば。
ヒカリ先生が、私の手を引っ張って、起き上がらせながら言った。
「麗艶さんに感謝しないといけないわね。グンと勝率が上がったわ」
私は強くうなずいた。
麗艶さん、ヒカリ先生、ありがとうございます。
ごめんね、アスカちゃん。この勝負、私が勝つよ!




