第84話 唐突なオファー
体がウズウズして、私はジムの外でシャドーボクシングをしていた。
いわゆる一人稽古。
相手を想定して一人でパンチやキックなどの動作をする練習法。
汚れ一つない生まれたてのジムの前には祝いの花が飾られている。
でも、いまは夜だから花の美しさがあまりわからない。
明日から新生チームスパークがオープンする。
すでにフェニックスジムの人たちには別れを告げている。
お別れ会には牧村さんとフェニックスジムの会長以外の会員も来た。
陰で私の悪口を言っている人やいっしょに練習してくれなかった人も来ており、そんな人たちの上辺だけの社交辞令と作り笑いを前にして、どっと疲れがたまった。
それでも牧村さんが来てくれていたのは救いだった。
「また練習で困ったことがあったらいつでもおいで。困ってなくても来てくれていいよ」
そう言われて嬉しかった。
シャドーをしながらジムを観ていると、入口から父がよろよろとした足どりで出てきた。
父は病気の後遺症で、運動能力が大きく低下している。
転ばないか心配した。
父は私と同じ位置からジムに向き直った。
私はシャドーをやめた。
「見ろ。フェニックスジムよりも大きいぞ。ただ、維持費が大変だからな。たくさんの会員を集めなきゃならん」
「押忍」
「今日の試合、ヒナが勝ったな」
私は体を揺さぶり、また「押忍」と言った。
夜に外でシャドーをしていたのは、たかぶっている神経を鎮めるために、夜風に当たりたかったからだ。
今日はヒナの試合がある日だったけど、ジムのオープン前の準備が忙しく、会場に行けなかった。
代わりに有料動画を観ていた。
私はらしくなく、応援の声を発しながら、父はダメだしをしながら。
父は試合を振り返り、言う。
「多少粗削りだが、相変わらず気持ちの強さが出ていたな」
「ヒナは、ブレイブカウだから」
「まったくだ。本当にブレイブだった」
そう言って父は笑う。
「このときを待ってた。ヒナとタイトルマッチができる」
私の言葉に、父は「ああ」と曖昧な返事をしたあと、真顔になった。
「実はな、お前にアルティメットフォースからオファーが来ている」
嬉しい、というよりかは、なぜこのタイミングでという思いの方が強かった。
「アルティメットフォースの王者になりたいという、お前の目標に一歩近づいたわけだ」
父は説明を続けた。
電話があったのは今日だったらしい。
アルティメットフォースを運営している代表者のジョンソンさん本人ではなく、代理人からだそうだけど、私をアルティメットフォースにという誘いの電話だったらしい。
ストロー級で契約試合は三試合。
結果次第ではその後も継続参戦ができ、なおかつ勝ち続ければ、タイトルマッチも夢ではないということらしい。
「ジョンソン代表は、アルティメットフォースの日本大会を開きたがっている」
だから私が欲しいということだろう。
日本大会は、一〇年前に一度開催された。
でも強くて知名度のある日本人選手がいなかったのもあってか、あまり収益が得られなかったらしい。
以降は日本から撤退している。
「お前は日本での知名度が抜群に高い。参戦すれば集客を見込めると踏んだんだろう」
私の答えは決まっていた。
「お願いします。ヒナと試合をさせてください」
病気を経験したからか、あるいは年をとったせいか、父は昔より性格が丸くなった。
タイトルマッチを終えた後に、母にお金を少し渡したときも、怒られはしたけれど、以前のように殴られることはなかった。
こう言われるのは想定済みのようで、父の顔に戸惑いはなかった。
それでも首を縦に振らなかった。
「だが、アルティメットフォースからオファーが来ているんだぞ。最大手の団体で王者になるのがお前の夢じゃなかったのか?」
私の中で、ヒナの存在はとても大きなものになっていっている。
父もそれを分かっているから、即決で駄目と言えなかったのだろう。
「大晦日に彼女とRFCのタイトルを賭けた防衛戦をしたい。それからアルティメットフォースに行きます」
父は、険しい顔で頷いた。
「そこまで言うのなら。だが、仮にヒナに負けるようなことがあれば、夢への切符を失う羽目になる。そのことは肝に銘じておけ」
目を見開き、私は「押忍!」と頷いた。
いつの間にか、小雨がパラパラと降っていた。
私と父は、ジムに戻ることにした。
入口近くで父に尋ねる。
「今日、練習していい?」
「誰がしちゃいけないと言ったんだ?」
「新しい、マットが汚れるかと思って」
「かまわん。いずれ汚れる」
ヒナ、ごめんなさい。
こればかりは譲れない。あなたを全力で叩き伏せる。
そのために、いっぱい練習してもっと強くならなければ。
この日は日付が変わってからも、父とマンツーマンで練習を続けた。




