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第83話 サイン

 電車内では周りの人からじろじろ見られた。

 たしかに鼻にガーゼをあてがい、松葉杖を持っている姿というのはあやしいかもしれない。

 と思っていたら、若い成人女性にサインを求められた。


 手帳の白いページにサインをすることになった。

 快く応じるも、試合をしたばかりで指に力が入らず、なおかつ電車は揺れるので、字が乱れてしまった。

「汚い字ですみません」

 女性はかぶりを振った。

「こちらこそ無理を言ってすみません。私もあの会場で試合を観てたんです。用事があって途中で帰ったんですけど。山本選手の試合も観ました。すごい試合でした」

「ありがとうございます。そう言ってもらえると頑張った甲斐がありました」

 途中の駅で女性は下車した。


 車内でスマホを観ていた美香さんが「ああっ!」と大きな声を上げた。

 その後、誰にというわけでもなく、頭を下げた。

「どうしたの?」

 美香さんが笑顔でスマホの画面を見せてくれた。

 そこには『ヒカリ先生、渾身の右アッパーでKО勝ち!』と沙世さんからのメッセージが来ていた。

 私も、自分のスマホを見ると同様のメッセージが来ていた。


「「やったー!」」

 私と沙世さんは思わず手と手を叩き合った。


 そのとき咳払いが聞こえた。

 見ると怪訝そうな表情で周りの人達が観ていた。

「「すみません」」

 同じタイミングで私と美香さんは頭を下げた。


 その後、病院で鼻に鉄の棒を突っこむという地獄の痛みを伴う手術を受けた。


 医者からは、たぶん元の鼻に戻るよと言われた。

 折れてからすぐ病院に行ったのと、綺麗にパキーンと折れていたのとで、治すのが簡単だったらしい。

 めちゃくちゃ痛くて泣いたけど。

 

 病院での手術を終え、玄関のドアを開けると、慌てた調子でお父さんが出てきた。

 私の様子を見て、「大丈夫かい?」と聞いてきた。


 手に松葉杖を持ち、鼻にはあてものをしている。

 私はニコッと笑う。

「へっちゃらだよ。鼻も元に戻るよ。たぶん」

 お父さんはホーっと深い息を吐いた。

「ヒナはいままですごいことをしていたんだね。試合を生で観て圧倒されたよ」

 お父さんにべた褒めされまんざらでもない。


 次いでお母さんが、やってきた。

「殴られすぎよ。観ていて冷や冷やしたわ」

 お母さんにはダメだしされちゃった。

「でも、怪我はしたけどこうして無事に帰ってきてくれてよかった」

 そう言ってお母さんは、私の頬に軽く触れた。

 目に涙は、溜めていないが、心底心配してくれているのは伝わってくる。


 大げさではない。

 試合のダメージでそのまま意識不明の重体、最悪の場合、死に至る選手もいる。

 私もいつか同じような状況に置かれる可能性は否定できない。

 それでも。

「心配かけてごめん。でもこれからもお母さんたちを心配させるかもしれない。特に次の相手は、ものすごく強いから」

 お父さんは頷く。

「アスカちゃんだね。格闘技に選ばれし神童と、うちのヒナが同じリングに立つなんて、失礼な言い方だけれど、まだ信じられない自分がいるよ」

 原田代表からすでに口頭で告げられたが、公式サイトでも私とアスカちゃんのタイトルマッチが即日正式発表されたそうだ。

 互いの怪我の回復を考慮して今年の大晦日に闘うことになったのだ。

 しかもメインイベント!


「私も信じられないでいるよ。思えばプロになってから負けそうな試合はあったけど、まだ私、負けたことがないんだよね。こんなにうまくいっていいのかなと思ってるよ」

 お母さんがツッコむ。

「そこは嘘でも、すべては必然でした、私は私がチャンピオンになれると信じていました、くらい啖呵を切っちゃっていいんじゃないの?」

「私のキャラじゃないから」と言うと、両親は笑った。


 本当、うまくいっている。すべて自分の望む通りに事が運んでいる気がする。

 でも。油断すれば必ず足もとをすくわれる。


 私は家族と笑顔で話していたが、心の中では身を引き締めた。

 次の試合、腹をくくって、全身全霊で臨む。

 そこから先のことは考えない。

「ひとまずは怪我を早く治すのが先決だね」

「うん。万全の状態でアスカちゃんと闘いたいから」

 父の言うとおりだ。

 私はつい無理をしすぎるから注意しないと。

 おそらく当面の間、スパーリングや肉体に負荷のかかる激しいトレーニングは禁止と、ヒカリ先生からも言われるだろう。

 じれったいが、仕方ない。ここは焦ってはいけない。


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