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第69話 もう一つの闘い

 夜の病院は静か。

 手術室の向こう側では、父が闘っている。

 私は手術室の外にあるベンチに腰かけている。


 試合のあと、牧村さんに祝勝会をしないかと言われたけれど、断った。

 会場の更衣室で着替えたあと、病院に直行した。

 顔がズキズキ痛む。

 殴られすぎたせいでまぶたが腫れ、視界が少し狭い。

 完治していない右足は腫れていた。

 折れてはいないけれど、靭帯を痛めたかもしれない。

 でも大したことではなかった。

 父がいま直面している危機に比べれば。


 まさか私が病院に来るとは思っていなかったのだろう。

 一応、来る前に病院に電話を入れた。

 それでも二四時間体制といえども、夜遅くだったので電話に出た人は鬱陶しそうだった。

 しぶしぶ了承してくれ、こうして私はいま、父の闘いを見守っている。

 看護師に聞いたら、今日の昼から手術を開始し、いろいろあって長引いているらしい。

 あまり良いことは言われなかった。

 成功する可能性が低いとまで言われた。


 私は、祈らずにはいられなかった。

 神さまか仏さまか、そんなのはどちらでもよかった。

 ただ、父を救ってくれるのであれば誰でもよかった。

「お願いします。お父さんを助けてください」

 誰もいない空間で一人で呟いた。

 格闘技の観客はこういう気持ちなのかもしれない。

 無力かもしれないと思いつつ、好きな選手の勝利を願い、応援せずにはいられない。

 いまは私が観客。

 父と病気との闘いを見守っている。

 病院で声援を送るわけにはいかないから、こうしてじっと祈っている。


 父との思い出を振り返るにはまだ早かった。

 それでも自然と思い起こされた。


 物心ついたときには拳の握り方を教えてもらっていた。

 小指の側から順に握っていき、最後に親指で人さし指と中指を押さえるようにして握りこむ。

 そしてサンドバッグを殴らされた。

 私がパンチを叩きこむと父は嬉しそうに笑ったのを覚えている。


 でも良いことばかりじゃない。

 父とのマンツーマンの練習で意識を失ったことがある。

 軽いスパーリングだった。

 小学生三年生のときだった。

 練習中に父の攻撃が当たり、脳震盪を起こしたのだ。

 このときはさすがの父もすまなかったと謝ってきた。


 でもそんな思い出も、いまは愛おしかった。

 良いことも悪いことも父がからんでいた。私の人生は父とともにあった。


 そのとき、足音がこちらに近づくのが聞こえた。

 看護師だろうかと思い、立って挨拶しようとしたら、ヒナだった。

 昔からの、ぼわっとした印象のワンピースという出で立ちだが、手には買い物袋を持っている。


「私もついさっきまで会場にいたんだよ。おめでとうチャンピオン」

「どうしてここに?」

 ヒナは、のぞきこむようにして大きなドングリ目をこちらに向けてきた。

「アスカちゃんの知り合いって言ったら入れてもらえた。それにしても、アスカちゃんはお父さん思いだね」


 私は何と答えていいか分からず、ベンチに座った。

 ヒナも「隣いい?」と言ってから、腰かけた。

 すると買い物袋から缶コーヒーを取り出し、私にくれた。

 飲むと、甘ったるい味に思わず顔をしかめてしまった。

「これ、砂糖が入ってる」

「ごめん、ブラック派とは知らなくて」

 慌てて首を振る。

「ううん。ありがとう。糖分は飲み物からとらないようにしているだけだから」

 そう言ってグビグビと一気に飲み干した。急に頭が冴えてきた気がする。

「おいしかった。おかげで、いい眠気覚ましになった」

「それはよかったよ」


 時計は持ってきてない。

 けれど、ヒナが腕時計をしていて、私がここに来てからまだ一時間しか経っていないと知った。

 もう三時間くらい見守っている気がしていた。


 院内なので、あまり騒がしくできない。

 ヒナも私もじっとしていた。


 その間、小さな声で時折会話を挟んだ。

「ヒナ、減量は平気?」

「慣れた。揚げ物やラーメンは試合が終わってオフシーズンのときに食べるくらいかな」

「私は本格的な減量に入る前に、ゲン担ぎとしてマシュマロをたくさん食べる」

 ヒナの大きな目がさらに大きく見開かれた。

「マシュマロが好物になったんだね」

 不意に愛といっしょにヒナの家に招待されたときのことを思い出した。

 同時にその後の大みそかに絶交を切り出してしまい、ヒナを傷つけてしまったことも。

 いまの私の顔は、ややこわばっているだろう。

 私は頷いた。


「マシュマロ、おいしいから」

 なんとかごまかそうとしたけど、黙りつづけることに後ろめたさをおぼえた。

「ごめんなさい。大晦日のこと」

「気にしないで。あの別れは新藤先生に絶交しろと言われたからでしょ?」

「ちがう。たしかにお父さんにはあなたと絶交しろと言われた。でももう半分は私の意志。あの頃の私は、たるんでいて練習もたまにサボっていた。このままではダメになると思ったから。自分のことを棚に上げて、ヒナのせいにして絶交した。私が悪い」

 ヒナは笑って首を振った。

「もう昔のことだからいいよ。それにあの頃のアスカちゃんにとってだけでなく、私にとっても、必要な過程だったと思う。あの別れがなかったら、ここまで来れてなかった気がするよ」


 ヒナは幼稚園の頃から変わらない。

 とっても優しい。


 ところでさ、と前置きを置いてヒナは話題を変えた。

「私、クラスの男子にデートに誘われたことがあったんだ。断ったけど。アスカちゃんはある?」

「高校をすぐに中退したから、ない」

「学校以外では?」

「ある。けど、全部断ってる」

「相変わらずストイックだね」

「私の人生は格闘技のためにあるから。それに……」

「それに?」

 私はごまかさなければと焦った。

「それに、しても、夜の病院は肌寒い」

「そうだね。冷えてきちゃった」


 すると、またもや足音が近づいてきた。

 私とヒナは立ち上がり、手を挙げた。

 足音の主も同様のリアクションをした。

 手には大きな紙袋を持っていた。

「ヤホ。二人ともやっぱりここに来てたんだね」

 いつもより声のトーンを落とし、愛が笑いかけてきた。


 思わず笑みがこぼれた。

 来て早々、愛は冗談交じりに唇をとがらせた。

「聞いてよ、アスカ。ヒナがさ、私に黙って行っちゃったんだよ」

「ごめんね、愛ちゃん。夜遅くだったから悪いかと思って」

「これは、明日は学校に行けないね」

「いっしょに先生に怒られよう」

 そう言って二人は微笑みあう。私も思わず笑った。

 すると愛は大きな紙袋から掛け布団を三枚取り出した。

「薄いけど、寒さをしのぐのに、少しは役に立つかなと思ってさ」


 有名になって、いろんな人と知り合いになった。

 私を良く思っていない人が沢山いることも知った。

 でもこうして私の味方になってくれる人も変わらずいる。

「二人とも来てくれてありがとう」


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