第63話 アスカVS麗艶 2ラウンド目
一ラウンドの終わり、麗艶の三角絞め、あれは完全に極まっていて危なかった。
なんとか持ちこたえたけれど、やはり寝技の得意な王者相手に組みに行ったのは不用意だったかもしれない。
頭部からの出血は止まった。
目に入ったら大変だから助かった。
私は自分で自分の太ももを触る。
大丈夫。動けないほどじゃない。回復傾向にある。
セコンドの牧村さんが、必死に言葉を投げかけてくれている。
頭への酸素が一時的に遮断されていたため、ぼんやりとしていたが、牧村さんの大きくはっきりとした声で完全に目が覚めた。
「第一ラウンド、とてもよかった。特にタックルに合わせた膝が。ただね、麗艶はグラウンドが得意で、しかも下からの攻撃も巧い。寝技につき合わず、タックルに行ける距離より遠い間合いを維持するんだ。そうして遠い間合いからアウトボクシング。打撃に関しては、こちらに分がある。いいね? アウトボクシングだよ! 寝技につき合っちゃダメだよ!」
牧村さんは私の肩をポンと叩く。
頑張れよという合図だ。
私は「押忍!」と頷く。
もう一人のセコンドに水を飲むよう促され、少し口に含む。
インターバルが終わる。
私は立ち上がり、再びリング中央に向かう。
互いのセコンド陣は椅子を片付け、撤収作業を始めた。
背中越しに牧村さんの声が響いた。
「源治さんも、いま必死で戦っている! 戦いながら、きっとアスカちゃんの勝利を祈っているよ。お父さんのためにも何としてでも勝とう!」
誰かのために闘ったことは一度もない。
私は、私が強くなるため、王者になるためにここまでやってきた。
父も、父自身のために、娘である私に格闘技の英才教育をしてきた。
父は私を利用している。
そして私も父の提供してくれる環境を利用している。
だから牧村さんのいまの言葉には素直に頷けない自分がいた。
牧村さんは、元総合格闘家で、その前はスクールカウンセラーの仕事もしていたという変わった経歴の人だ。
相談に乗る人というイメージしかないけれど、人の心に詳しい人だと思っていた。
実際に牧村さんは選手を励ましたり、応援したりするのがうまいし、こちらが望んでいる言葉を、よく投げかけてくれる。
とても優しい人だ。
それでも、人の心のすべてを理解することはできないのだろう。
いまの励ましの言葉は私にとって触れられたくない箇所だった。
リング中央で再び麗艶と向かい合う。
私はまっすぐに麗艶を見つめる。
彼女は妖艶な微笑を浮かべていた。
獲物を前にした肉食獣を連想した。
「楽しいわね」
王者の言葉に私は頷いた。
「うん。そうかもしれない」
私は、生まれたときから総合格闘技が身近にあった。
格闘技が楽しいともつらいとも思わないくらい、当たり前にあった。
それでも、いま、すごく楽しい。
私はやっぱり総合格闘技が好きだ。
父のために闘ってきたわけじゃないし、これからも誰かのために闘うことはないだろう。
でも、なぜだろう。
父のことを思うと胸がぎゅって締めつけられる。
そして誰かのため、というところでなぜか父だけでなく、ヒナも思い浮かんだ。
いけない。
こんなことが頭に思い浮かぶのは、試合に集中していない証拠だ。
私は雑念を振り払おうとし、麗艶が差し出してきたグローブを強めにタッチした。
第二ラウンドの幕開けだ。
私は麗艶の足に左のローキックを見舞う。
軸足である右足の太ももが少しズキッとした。
まだ完全には回復していないようだ。
効いている手応えはある。
実際、麗艶の足は赤く腫れている。
ただ、麗艶の動きが落ちる気配はなく、微笑をうかべたままポーカーフェイスを貫いている。
相当タフだ。
麗艶の足が上がったかと思うと、腹部に衝撃が走った。
鞭のようにしなる鋭い前蹴り。
反応できなかったが、これはなんとか耐えた。
自慢ではないけれど、腹筋運動は毎日やっているので、ボディの打たれ強さには、自信がある。
麗艶の、蹴り足を引いて元の体勢に戻る動作に合わせ、私は大きく踏み込んだ。
「近いよ!」
牧村さんの悲鳴に似た声が響く。
パンチを打とうとしたけれど、その前に立った状態で組まれてしまった。
一般的にクリンチといわれる攻防だ。
ボクシングでもよく見られる光景で、接近戦を嫌がったり、距離が近すぎたりする場合に、相手に抱きついてレフェリーが割って入るまで待つという技術だ。
ただし、これはММA。クリンチの後も攻防が続く。
麗艶は私の首の後ろ側を両腕で抱え、ボディに三発、膝蹴りを放ってきた。
ボディは鍛えているけれど、それでも何発も喰らうと効いてしまう。
私は、負けじと左手で麗艶の頭を掴み、隙間をぬって、反対の手で、頭部にコツコツとショートフックを打っていく。
「無理して付き合う必要はない! 突き放して離れてもいいよ!」
牧村さんの叫びが背中越しに聞こえる。
そうだ。
この距離は、打撃を効かせるには近すぎる。
組み技の距離だ。
それはすなわち、チャンピオンの距離。
インターバルで牧村さんに念を押されていた『アウトボクシング』という言葉をやっと思い出した。
だが遅かった。
私は王者を突き放そうとしたが、その前に組みつかれてしまった。
胴タックル。
ではなく、王者は、両腕を私の臀部と大腿部の間に移動させた。
そのまま、私を持ち上げ、マットに叩きつけた。
後頭部は打たなかったので、失神することはなかったけれど、物凄い衝撃が体を駆け抜けた。
すぐに立つ準備をしようとしたが、麗艶に足を掴まれ、思うように動けなかった。
ここで無理に動いて、背中を見せて立ち上がろうとしたら、背後に回られ、裸絞めを仕掛けられる危険性がある。
私は、下の体勢、ガードポジションからしのぐ選択をした。
しばらく持ちこたえて、隙を見て立ち上がる作戦だ。
麗艶はニタァと品のない笑みを浮かべると、そこから私のこめかみめがけて肘を打ってきた。
肘。肘。肘。肘。
私は麗艶を下から抱きかかえ、打たれまいとする。
でもやがて引きはがされ、また肘の連打を見舞われる。
肘。肘。肘。肘。
再び頭から出血した。
麗艶の肘が真っ赤に染まっている。
肘打ちを堪えるために、抱きかかえ、それを引きはがされ、また肘打ち。
麗艶は何度か私の足をまたいで、さらに有利なポジションに移行しようとするが、それはなんとか足で防ぐ。
でも、また肘打ち。
この攻防が延々と続いた。
観客からのブーイングがすさまじかった。
第二ラウンド残り一分というところで、私は背中を見せ、立ち上がろうとした。
ここからが勝負だ。
麗艶のバックコントロールか、私のエスケープか。
麗艶の動きも速かったが、間一髪、完全に支配される前に立ち上がることができた。
それでもチャンピオンはしつこく粘着テープのように貼りついてきた。
ロープ際で、お互い立った状態で、麗艶は私の背中にピッタリとくっつき、私は背中越しに組まれている麗艶の両腕を解除しようとしている。
お互い、くっついたままで動きが少ないため、地味な攻防だけれど、とても重要な局面だ。
麗艶が制すれば、彼女は、私を投げ倒すか、そのままおんぶ状態になって、そこから裸絞めを仕掛けてくるだろう。
反対に私が制すれば、両腕を解除し、向き直って、仕切り直しとなる。
しばらくの膠着状態の末、私は麗艶の腕を解除し、向き直ることに成功した。
でも時間がかかりすぎた。
ここから挽回する前に第二ラウンドが終了してしまった。




