第45話 ちょっと待ったー!
麗艶さんが引退?
そんなニュースは聞いたことない。
ヒカリ先生も驚いている。
沙世さんはまじまじと私たちを見つめている。
美香さんは口論をはじめた私たちに怯え気味だ。
「え? 麗艶さん、引退するんですか?」
私は麗艶さんに問いかけた。
麗艶さんは返事をせず、代わりにセイラが得意げに語りだした。
「はじめに言っておくと、レイエンさんはまだまだ強いでーす。ただ、タレントやモデルもいっしょにやっているから、今後はそちらに……」
するとセイラの背後から麗艶さんの腕が回される。
「しゃべりすぎ」
キュッと首にチョークを極められ、セイラは慌ててタップし、ゴホゴホと咳きこんだ。
「まだはっきりとは決めてないんだけどね。私も三〇を超えてる。体力は衰えていないけど、これから下り坂になる。私の理想は無敗のまま引退して伝説のチャンピオンになることだから、引き際が大事なのよ」
「私だったら、まだ闘えるのに辞めるのはもったいないって思っちゃいますけど・・・・・・」
でも決めるのは本人だから、と言おうとしたところでドシンと怪獣のような足踏みがした。
「ちょっと待ったー!」
足音と声の方を見ると、そこにはジュリちゃんがいた。
私やアスカちゃんより年上なのもあるけど、随分大人びた印象だ。
形が良く、ぷっくりとした唇が相変わらず色っぽい。
髪型は以前と同じ短めのポニーテールだけど、背がかなり高くなった。
特に足が長く、寝技のときに技を極めやすそうだ。
「ジュリちゃん!」
思わず声を上げる私に対し、彼女はあまり驚いていなかった。
「ああ、ヒナ、ひさしぶり。うちの選手が出場するからセコンドで来た。本当は驚かしてやろうと思って黙ってたんだけどね。今はそれどころじゃないみたいだから」
言うなり、掴みかからんばかりの勢いで麗艶さんの前に立った。
「麗艶、あんた勝ち逃げは卑怯よ!」
セイラがつっかかる。
「あなた、失礼ですね。このお方を誰だと思ってるのです」
「不倫クソビッチ」
その一言にセイラは激昂したが、麗艶さんが手で制した。
「あら、随分な言い方ね。まあ、それはいいとして、いつ引退するかは私の自由でしょ?」
「私はね、勝ったまま引退する王者が嫌いなのよ。チャンピオンは次の世代にバトンを渡すという意味でも勝ち逃げは許されない。それにね」
麗艶さんは大人の余裕を保ったままだ。ジュリちゃんの次の言葉を待っている。
「引退するなら、少なくとも私と闘ってからにしなさいよ」
「早瀬ジュリ。十四歳でブラジリアン柔術の黒帯を獲った天才少女。プロになり、破竹の三連勝。そこからRFCとの契約を勝ち取り、一勝するも膝の怪我で長期離脱。復帰戦では鋼トギシのパンチでノックアウト負け。直近の試合で負けてるあなたに、なぜ挑戦させてあげなくちゃいけないのかしら? 列に並び直さなくちゃダメよ」
そうなのだ。
ジュリちゃんの王座挑戦が遅れているのは、膝の怪我が原因だ。
一年間の休養を強いられ、復帰戦では試合勘が鈍ったせいもあるだろう。
負けてしまったのだ。
正論を言われ、ぐうの音も出ないかと思いきや、ジュリちゃんはその程度でひるまなかった。
「理由ならある。あんたが加害者で私が被害者だからよ」
麗艶さんは小首をかしげた。
「早瀬聖子って知ってる?」
「ああ、ブラジリアン柔術の黒帯で、柔術の世界王者になった人ね」
「そう。そしてあんたが不倫した相手の奥さん。あんたのせいでうちの家庭は滅茶苦茶。両親は離婚して、お母さんはショックで柔術を引退してしまったのよ」
ジュリちゃんの言葉を聞き、麗艶さんはフフフと含み笑いを漏らした。
「あなたが聖子さんの娘なら、たしかに闘う理由にはなるわね。いいわ、プロモーターにかけ合ってみましょう。でも神童を倒すのが先だから、あなたは後回しよ」
ものすごい自信だ。
アスカちゃんに勝つこと前提で話を進めている。
そこへ女性が割って入る。
私よりも階級が上のようで、かなりの大柄だ。
「ジュリ、もうそろそろ開演だから行こう」
「ごめん、なぎさ。試合前にひと悶着起こしちゃって」
立ち去る前にジュリちゃんは私に声をかけた。
「試合、楽しみにしてるから。ガンバよ」
ありがとうと、頭を下げると、ジュリちゃんとなぎささんは控室を後にした。
その後ろ姿にセイラは中指を立て、小声で「ファック」とつぶやいていた。
麗艶さんはフフと妖艶な笑みを浮かべた。
「人気者はつらいわね。知らない間に敵が増えちゃうわ」
そのとき沙世さんが麗艶さんの前に進み出た。
「あの、麗艶さん。ぶしつけで申し訳ないんですけど、一つ質問いいですか?」
「なにかしら? もうすぐ始まるから手短かにお願いね」
沙世さんは緊張していた。
「私は強くなりたくて。でも弱くて結果出せなくて。格闘技をやめようかと思うときもあって。チャンピオンになれるわけない私が、このまま練習を続けて意味あるのかなって」
麗艶さんの目は優しかった。
「普段の練習は楽しいのかしら?」
沙世さんは目を逸らした。
美香さんは胸に手を当て沙世さん以上にそわそわしていた。
「分からなくなってきています。はじめは楽しかったのに、だんだん練習をサボる日が増えてきたり、練習に参加しても身が入らなくなってきたりしています」
横からセイラが口を挟んできた。
「気持ちがその程度なら辞めた方が身のためでーす。いつか死にまーす」
「セイラ、あなたは静かにしなさいな」
「イエス」
しょんぼりとした調子でセイラは答え、以降は口を閉じた。
「お名前は?」
「秋田沙世です」
「沙世さん、私たちプロの格闘家は、最初は誰もが自分が一番強い、あるいは強くなれると信じてこの世界に足を踏み入れるわ。そして私も信じてここまで来ることができた。でも私は運が良い方であることも知っている。オリンピックの金メダリストや格闘技のチャンピオンは氷山の一角とよく言われる。実際その通りで、勝つ人がいても、それ以上に負ける人の方が圧倒的に多いのよ。私は夢を信じて叶えられたけれど、信じて裏切られる人が大半よ」
沙世は目を見開き、赤くしていた。
「分かります。夢を叶えられる人はごく僅かだということは」
「私は信じて夢を叶えた。少しでも疑いや迷いがあったなら、今ここにはいなかったと思う。でも私の考えを全ての人に無理強いする気はないわ。趣味でやるもよし、人気者になりたいという動機で始めるもよし。それらを踏まえて言わせてもらうと、格闘技を続ける動機は自分で見つけるしかないわ。誰かに叱咤激励されたり、強制されたりしてするものじゃない」
顔をうつむかせる沙世さんに、麗艶さんは優しく語りかける。
「別に説教したいわけじゃないわ」
「分かっています」
沙世さんは泣いていた。
麗艶さんが頭を優しく撫でる。
「無責任なことはあまり言いたくないんだけど、もう少し続けてみなさいな。私に勇気をもって聞いてきたということは、まだ未練があるということでしょう?」
「はい」
目元を拭った沙世さんは頷いた。
「さてと、そろそろ開演だわ。行くわよ、セイラ」
「イエース」
セイラと麗艶さんはその場を後にした。




