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第42話 誠心道場

 愛ちゃんと別れた私は、所属しているジムへと向かった。

 ジムは『誠心道場(せいしんどうじょう)』という名で、元は空手を教えていて、今は空手とMMAを教えている。


 受付とかはなく、入ったらすぐ目の前に、マットを敷いた練習スペースが広がる。

 青いマットの上で、総合クラスのインストラクターであり、所属選手でもある佐藤ヒカリ先生がストレッチをしていた。

「押忍! お疲れさまです!」

 私が元気よく挨拶すると、ヒカリ先生もニコッと微笑んだ後、大きな声で押忍と返してきた。

 マットスペースの左側に男性用と女性用の更衣室がある。

 ファイティングウェアに着替え終え、更衣室を出たところで、子どもたちがぞろぞろやってきた。キッズクラスのメンバーだ。

「靴はきちんと揃えましょうね」

 歌のお姉さんのような声音でヒカリ先生が皆に言う。

 銀色に髪を染めているが、元は空手出身ということもあり、礼儀作法やマナーには細かい。

 でも怒ることが下手で、子どもたちはあまり言うことを聞いてくれない。


「こらー、靴を揃えんかい!」

 そこへ空手の部の先生であり、誠心道場の責任者である武田誠先生がやってきた。

 感情的ではないけれど、どすの効いた怒鳴り声だ。

 武田先生はブルドックのような顔をしており、強面なので、私だったら怒らせたくないと思ってしまうが、子どもたちは慣れっこだ。


 私とヒカリ先生はそろって挨拶した。

「押忍! すまん、仕事で遅くなってな。準備できた奴から始めようか」

 基本動作をしたあと、ミット打ちに入った。

 私はミットを持ち、蹴りを放つ少年部の子にアドバイスをした。

「うん、いいよ! 次はミットに当たって止まるんじゃなくて、もっと振り抜こうか。ミットの向う側を蹴り抜くイメージで」


 私はこの道場で名ばかりではあるけれど、インストラクターのバイトもしている。

 そのお金で会費や練習用具にかかる費用を捻出している。

 でも指導の手伝いをしているのは、教えることが私自身の勉強にもつながるから、というのが大きい。

「お前ら、気合いを入れて蹴れ! もっと大きな声を腹から出せ!」

 武田先生の怒声が響く。

 アスカちゃんのお父さん、源治さんも厳しかったけど、武田先生も負けじと厳しい。

 さすがに竹刀で叩くことはないけれど。


 子どもたちの練習が終わり、入れ替わりで一般の部が始まる。

 空手クラス、MMAクラスを、いつもは曜日を変えて行なっているけど、今日はたまたま曜日が重なり、マットスペースを二つに分けて行なうことになっている。

 一般の空手クラスでは、武田先生の怒声と気合いが響き渡っていた。

 一方、MMAクラスでは、気合いこそ少ないものの、ほとんどの人は熱心に寝技のスパーリングをしていた。

 中には例外もいるけど。


 私と同い年の女の子二人組みは座ってしゃべっていた。

 それに気づいたヒカリ先生が口頭で注意する。

沙世(さよ)さん、美香(みか)さん、今は練習中よ。お話はほどほどにね」

 注意されたらすぐにピタとお話をやめた。

 でも気がつくと、また話し出す。


 見かねた私は、インターバルのとき二人に駆け寄った。

 私に気づくと、二人はおしゃべりを中断した。

 沙世さんがスポーツに不向きな長い後ろ髪をかき上げ、鬱陶しそうにこちらを見た。

「何の用?」

「みんなが真面目に練習しているときに、おしゃべりするのはよくないよ」

「うちの道場は楽しく自分のペースで練習がモットーなんじゃないの?」

 すると猫背の美香さんが耳打ちした。

「沙世ちゃん、あんまり怒らせない方がいいよ。一応プロなんだから」

 美香さんは、いつも沙世さんとくっついて練習しており、沙世さんがサボるときはいっしょにサボる。

 

 沙世さんは鼻で笑った。

「プロは王様でも何でもない。食っていけるのは、ほんの一握りなのよ。試合に出て怪我して、身体と脳ミソをボロボロにして、やりたいならご自由に。でもそれを私たちに押しつけないでほしいわ。私はゆるく楽しく運動したいだけなの」

 ここは引き下がっちゃいけないところだ。

「みんながプロを目指す必要はないし、格闘技に対する取り組み方も人それぞれ。それでも、最低限の礼儀やマナーはある。少なくとも練習のときに私語をするのはマナー違反だよ。おしゃべりだけなら道場に来る必要ないでしょ?」


 すると美香さんが顔をうつむかせた。

 長めの前髪がのれんのように垂れ下がった。

「たしかに私たち邪魔ですよね。辞めた方がみんなのためにもなるかもしれないですね」

 辞めたいならとっとと辞めればいいじゃん、と言いたいのが本音だったが、それは酷いかもしれないと思い、ぐっと堪えた。

「練習、そんなに嫌なの?」

 私の問いかけに美香さんは言いよどんでいる。

 沙世さんはうつむいている美香さんの髪を撫でた。

 前髪で美香さんの表情が見えない。

「たまに練習がつらいと思うときもあったけれど、楽しかった。もっと技を磨いて強くなろうと思ってたんです。最初のうちは。でも……」


 でも、何があったのだろうか。

 二人が練習にのめり込めなくなった理由を聞きたいと思ったが、そこへヒカリ先生の声が響いた。

「ヒナさんたち、インターバルはとっくに終了してるわよ!」

「押忍! すみません、すぐに再開します!」


 そうだ。今は練習中だし、あと二ヶ月で試合だ。

 一分一秒でも惜しい。

 やる気のない二人組みを放っておいて、練習を再開した。


 一般の部の練習が終わって、雑巾でマットを拭いていた。

 沙世さんと美香さんは掃除を手伝わずに更衣室へ入っていった。

 その様子を武田先生がチラ見した。


「あいつら、辞めるかもしれんな」

 武田先生は、厳しい人だけど、繊細なのか、後ろ向きな発言をよくする。

「二人はどうしてやる気を失ったんですか?」

 私の問いに、武田先生は眉間にしわを寄せる。

 私に目線を合わせていないので、敵意でないのはわかった。

 言葉を選んでいるのだろう。


「まず沙世がここに入会したのが小学四年だった。そのすぐ後に沙世の友だちの美香が入会してきたんだ。二人とも練習熱心だった。巻き藁を毎日百本突いてたらしい。拳の皮がめくれるほどだった。はじめは空手クラスで、中学校に入ってから、MMAクラスに変わったんだ」

 そういった経緯があったのか。

 私よりも早くから格闘技に出会っている。

 それでいままで続けてきたのだから、格闘技が好きなのはまちがいない。


 気づくと武田先生のマットを拭く手が止まっていた。

 ハッと我に返った先生は、再び掃除を再開しながら話を続けた。

「まあ、あれだな。どうしても競技ってのは人との競い合い、比べ合いになるからな。あいつら空手でも総合でも大会にはそこそこ出ていたんだよ。でもなかなかいい結果を出せなくてな。空手で伸び悩んでいたから、総合に移ったけど、総合でもなかなか勝てなくてな。それでもなんとかしがみつこうともがいていたんだよ。けどここ最近はやる気を失ってしまってな。選手の育成ばかりに力を入れ過ぎた俺の責任でもある」


 そこへヒカリ先生がやってきた。

 私は立ち上がり、頭を下げた。

「すみません、おしゃべりしてしまって。すぐに掃除を終わらせますから」

「掃除はもう終わったわ。それより武田先生、悪い方向に考えすぎですよ」

「うるせいやい。たまには弱音のひとつくらい吐かせろやい」

 武田先生は恥ずかしそうにうつむいた。

「私はまだ手遅れだと思っていませんよ。沙世さんと美香さんが再び格闘技への情熱を取り戻して、今よりも真面目に取り組んでくれる日が来ると信じています」

 ヒカリ先生の言葉に武田先生は、ゆっくりと相づちを打つ。

「そうだな。教え子の可能性を信じるのも師範の仕事だよな」

 沙世さんと美香さんをなんとかしたいという気持ちが私の中で芽生えていた。


 誠心道場は、子どもの部を含めて二〇人弱の練習生がいるけど、メンバーの入れ替わりは激しい。

 最初は試合を観て、プロの選手に憧れて入会する人が多いけど、練習のつらさや怪我の恐怖で辞めていく人も同じくらい多い。

 私もチームスパークで習いたての頃は、練習がきつくて憂鬱だったときもある。

 だから辞めていく人を悪くは言えない。

 でも低いモチベーションのまま、やる気のないまま練習に参加しても、成長は遅いし、周りの士気にもかかわるし、何より怪我をする危険が高まるし、良いことがない。


 そのときだった。ヒカリ先生が私に聞いてきた。

「ヒナさん、今日は帰りが遅くなっても大丈夫かしら?」

 沙世さんと美香さんのやる気を取り戻させるための作戦会議でもするのだろうか。

「明日は学校休みなんで大丈夫ですよ」

「よかった。それだったら石段ダッシュをしに寺まで行くわよ」

 そうだった。私は二か月後に試合があるのだった。

 そのためにはもっともっと特訓をしなければ。

 人の心配をしている場合じゃなかった。

「何本ですか?」

「一〇〇本よ」

 こう見えてヒカリ先生はスパルタだ。

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