第40話 本当の麗艶
何が起こったのかわからなかった。
「ストレートパンチだね。ドゥーネの大振りのフックに合わせて、麗艶がカウンターを見舞ったんだ。ただ意識は断ち切れていないね。さほどダメージはないはずだ」
丸本の解説通り、ドゥーネはすぐに起き上がる。予定だったのだろうが、麗艶が獲物を狩るチーターのように飛びかかる。
ドゥーネの右足を抱きかかえた。
そのとき冴木の角度から麗艶の貌が鮮明に映った。
ニタァとした下品な笑みだったが、凄味があり、同時に妖艶だった。
「片足タックルだね」
丸本の言う片足タックルという技で、再びドゥーネは転倒した。
そこからは麗艶の独断場だった。
上からのしかかり、これまでの鬱憤を晴らすかの如く、怒涛の肘打ちを上から叩き込んだ。
ドゥーネが麗艶の腰を蹴り、距離をとって立とうとするも、獲物に食らいつくワニのように逃さず、ここからはよく分からないが、ものすごく速い動きで動き回り、そしてニシキヘビが獲物に巻きつき、絞めつけるような動きをするとドゥーネは昆虫の標本のように動かなくなった。
そして苦しそうな表情を浮かべ、ドゥーネは王者の腕を二回叩いた。
降参の合図らしい。
「ダースチョーク? いや、アナコンダチョークかな。いずれにしても実に見事な一本だ」
丸本が感心している隣で、冴木はリングの中央で拳を突き上げる王者の姿に釘付けになっていた。
麗艶は、恍惚とした顔で勝利者インタビューに応えていた。
アナウンサーのように、通りのいい声が美しかった。
対戦相手について聞かれると、「簡単すぎてつまらない。まだベッドでの闘いのほうが楽しめたわ」とのこと。
ジョークは下品だが、その妖艶な佇まいと相まって、冴木の欲望を刺激した。
「どうだね。すごいだろう。格闘技ってのは」
「え、ええ。そうですね」
冴木はたしかにすごいと思った。
でもそれは格闘技に対してではなく、王者の麗艶に対してだった。
それから冴木は、麗艶に近づくため、大会に顔を出し、RFCの宣伝と称して、麗艶に接近する機会を設けた。
スポンサーについている企業のCMに麗艶を出演させたいと冴木が提案したのだ。
そこではじめて対面した。
仕事を終えるとすぐに、食事に誘った。
麗艶は快く受け入れてくれた。
冴木は思ったより簡単だという印象を受けた。
肉体関係を持つのに時間はかからなかった。
おそらく麗艶は他の男性とも関係を結んでいるだろうが、まあ遊び相手にはちょうどいい。
そう考えていた。
だが、彼女の試合に足を運ぶたびに、この女を自分のものにしたい、なおかつこの女にとって、なくてはならない存在に自分がなりたいと思うようになった。
それくらい麗艶の闘う姿に魅了されていったのだ。
そしていま、冴木はある決意を胸に最上階のバーにいる。
「ふふ、じっと見つめちゃってどうしたのかしら」
麗艶は切り分けたステーキを口に運ぶ最中だった。
漆黒のノースリーブのドレスからのぞかせる真っ白な肌。
人工物だが、豊かな胸は谷間を形作っていた。
以前は嫌悪していた偽りの胸も、次第に気に入るようになってきた。
麗艶が顔を上げた。
冴木は視線を彼女の切れ長の目に移し、微笑みかけた。
麗艶も妖艶な微笑を浮かべ、冴木の承認欲求をくすぐる。
「相変わらず綺麗だと思ってね」
本心ではあったが、でもそれは照れ隠しでもあった。
容姿、肉体の美しさ、それらは麗艶の魅力のほんの一部に過ぎないと冴木は考えていた。
なぜなら彼女は格闘家なのだから。
闘っている麗艶こそ本当の麗艶なのだ。
「あら、お楽しみにはまだ早いわよ」
「今がお楽しみさ。君とこうして二人きりで話すのが僕にとっては至福のときだよ」
「奥さんと一緒にいるときよりも?」
冴木は、自分が妻子ある身であることを親しくなる過程で伝えていた。
そのときの麗艶は大人の余裕を見せてこう言った。
「だと思ったわ。だってあなたすごく素敵だもの」
当時の麗艶の本心は分からなかったが、少なくとも冴木に弄ばれていると思ったかもしれない。
彼女のひた隠しにしているであろう不信感を払拭するために、冴木は誠心誠意尽くしてきたつもりだ。
冴木はいままでいろんな女性と恋愛関係、肉体関係を築いてきたが、現在交際しているのは麗艶一人だけだ。
本当に愛しているのは麗艶だ、これこそが本当の恋であり、本当の愛なのだと冴木は信じ切っていた。
「ああ。妻といたときよりも、娘といたときよりも。それで話があるんだけど」
冴木はビジネスバッグから小さくて四角いものを取り出す。
それを麗艶の前に掲げ、開けてみせた。
「僕と結婚してくれ」
大きなダイヤの指輪だった。
麗艶の瞳が潤んでいるように映ったのは、冴木の錯覚だろうか。
麗艶は微笑をうかべ、小指で軽く、きらめくダイヤを撫ぜる。
「・・・・・・ごめんなさい。あなたとはいっしょになれないわ」
冴木は何を言っているのかすぐには理解できなかった。
「別れましょう」
別れる?
あれほどいっしょにデートを重ね、愛し合った仲なのに。
頭の中が真っ白になる。
「なぜ?」
「なぜって、最初のうちは本当にあなたに恋焦がれていたわ。でも一気に熱が冷めてしまって」
「困るよ! 君の言う通り、妻とは離婚したんだ。娘の親権も妻が持っている。君がいなくなっしまったら僕はどうしたらいいんだ」
切れ長の目をさらに細めた麗艶は、口元には歪んだ笑みを浮かべた。
「以前、映画の話をしたわよね。幸せの絶頂にある人、自分の成した功績に居丈高になっている人、そんな人たちがある日、突然として奈落の底に沈み、こんなはずじゃなかった、これからどうすればいいんだ。そうやって転落していく映画を観るのが、私は大好きだって」
冴木は全てを悟った。
弄んでいたのは自分ではなく、むしろ逆だったのだと。
「それに私は奥さんと離婚してくれなんて一言も言ってないわ。ただ、奥さんやお子さんがいたら、私との結婚は難しいかもしれないわね、と言っただけ。それをあなたが勝手な解釈をして離婚した。それだけのことよ」
麗艶はそっとテーブルの上に一万円札を数枚置いた。
「食事代と手切れ金よ。美味しい料理と楽しい時間をありがとう。じゃあね」
そう言って、立ち上がり、帰ろうとする麗艶の肩を掴む。
「待て! お前、俺をだましたな! このクソ女!」
冴木は自分がいままで作り上げてきた自己像が積み木のように崩れる音を聞いた。
気がつくと、掴んでいるのとは反対の手で殴りかかっていた。
麗艶は、さらにニヤァとした笑みを貌に刻み、背を向けたかと思いきや、冴木を背中で抱え、前方に投げ倒した。
一本背負いだ。
ドシンとバー全体が揺れた。
思わず冴木はうめき声をあげた。
彼はバーの床の上で大の字になっていた。
意識はあるが、すぐには体が動かなかった。
「これで本当のサヨナラね。ざまあ」
そう言い残し、麗艶はその場を後にした。
次にバーのマスターが近づき、冴木を見下ろした。
「あなたもトラップクイーンの餌食になりましたか」
マスターにとっては見慣れた光景なのだろう。
同情するでもなく、介抱するでもなく、仕事に戻っていった。
冴木は赤子のようにおんおんと泣くしかなかった。
ただ、手を差し伸べてくれる人は誰もいない。自分で立ち上がるしかなかった。




