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第36話 別れ

 そう。そうか。友達をやめる。

 突然の言葉にどういうリアクションをとればいいか分からず頭と心が停止した。

 考えることもせず、感情も動かなかった。

 私はアスカちゃんの次の反応を待った。


 頭を上げ、再びこちらを見つめるアスカちゃんの目は白ウサギのように赤かった。

 薄暗いお寺でも、はっきりと分かるほどに。

「ずっと前からお父さんに言われていた。ヒナといっしょにいたらお前はダメになる。きっかけはあなたと愛といっしょに撮った写真。それを見せて、友だちがいっぱいできたって伝えたら、お父さんは喜んでくれると思って。でもそれ以来、小言が増えた。最近たるんでいないか、とか。ヒナといっしょにお菓子を食べているのを知っているぞ、とか」


 たしかにアスカちゃんを家に招待してから、いっしょに遊ぶことが増えた。

 いままでは練習が休みの日曜日も、源治さんとマンツーマンで特訓していたらしい。

 でもそれを断り、私たちと遊ぶようになった。

 練習に支障はないのかと尋ねたら、アスカちゃんは大丈夫と言ってたけど、実際はちがったのかもしれない。

 さらにアスカちゃんは、私の家や店でお菓子やハンバーガーを食べるようになった。

 相変わらずスリムなので、バレないかと思ったけど、源治さんにはお見通しだったようだ。

 続けてアスカちゃんは言った。

「あなたは言った。あらゆることを犠牲にしてでも成し遂げたい。そう思えるものに出会えたら幸せって。それが私にとっての格闘技」

 だから友達である私を捨てるということか。

 ひどいとは思わなかった。


 私とアスカちゃんでは、格闘技を始めた動機が違う。

 私はアスカちゃんの影響を受けて憧れで始めただけだ。

 一方、アスカちゃんは生まれたときから格闘技が生活の一部となっていた。


 そもそもの入口が違うのだ。

 私という存在はアスカちゃんの足かせになっていたのだろう。


「分かった。私もアスカちゃんの夢の障害になんてなりたくない。あなたの人生だもの。後悔のないように歩いていってほしい」

 最後の方は涙声でうまくしゃべれていなかったと思う。

 アスカちゃんの目尻にも光るものが映っていた。

「後悔ならすでにある。あなたと出会ってしまったこと。そしてあなたと別れなければならないこと」

「絶対にチャンピオンになってね」

 私はアスカちゃんの手をとって握りしめた。

 手袋のような、私のふっくらとした手のひらの中で、アスカちゃんの細くて長くて、そしてテーピングがしてある指がかすかに動き、力強く握りかえしてきた。

 あたたかい手だった。

 いつまでも握っていたいと思わせるほどに。


「約束する」

 そう言って私の手を振りほどいた。

 握り合った手と手が離れたときに、これが本当のサヨナラなんだなと思った。

「もう遅い。帰ろう」

「大丈夫。家から近いし、一人で帰れるから」

「でも、夜道は危な・・・・・・」

「お願い。しばらく一人にして」

 アスカちゃんの言葉をさえぎり、私は言った。

 これ以上いっしょにいたら、我慢しきれない。

「わかった。さよなら」

 アスカちゃんは背を向け、来たときと同じように走り去っていった。

 一度も振り返らなかった。


 後ろ姿が遠くなってから、ようやく私は涙を流した。

 試合で勝ったときの嬉し涙、負けたときの悔し涙ならいくらでも見せられる。

 でもこんな悲しい泣き顔は見られたくなかったのだ。


 彼女がいなくなったお寺は相変わらず賑やかだが、帰って行く人々もいる。

 深夜だから、私もそろそろ帰らないと。

 そう考えるだけの冷静な頭はあるのに、体がついていかなかった。

 私はお寺の通りのど真ん中ですすり泣いた。

 何事かと私に目を移す人々もいたが、大抵は見て見ぬふりをするか、気づきもしなかった。


 六〇億人はいるといわれる全人類の中のたった二人が別れて、一人ずつになっただけの話だ。

 珍しいことではない。

 でもその些細なことが自分の身に起こるとなると、これほどつらいものなのかと痛感した。


 私は物わかりが良すぎたのか。

 でもアスカちゃんの邪魔をしたくはなかった。

 一緒にいたら遅かれ早かれ、価値観の不一致から仲違いしていたかもしれないのだ。

 これで良かったのだ、と思う。


 嫌だ。アスカちゃんと離ればなれになりたくない。

 もう一人の私が叫ぶ。

 黙って。


 すすり泣きは嗚咽へと変わって涙がポロポロとあふれ出た。


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