第18話 越えなければならない壁
ずっと動き続ければ、疲れるし、怪我につながる。
なので練習の合間にインターバルを挟む。
一分か二分くらいだから、あまり回復しきれないけど。
壁際で水分補給をしていると、アスカちゃんが隣に座ってきた。
「アスカちゃん、絶好調だね」
私の言葉に、少し笑みをこぼして頷いた。
「これまで一三戦全勝で地区大会で優勝経験もあるんだよね。すごいなあ」
「まだまだプロには遠いけど」
「そんなことない。絶対プロになれるよ」
アスカちゃんは肯定とも否定ともとれる曖昧な頷きを返した。
「ありがとう。でもプロがゴールじゃない」
「そうだね。ただのプロじゃなくてチャンピオンだったね」
「麗艶はかなり強い。今の私では倒せない。だからもっと練習してもっと強くなる」
「その人がチャンピオンなんだね。知らなかった」
私が王者の名を知らなかったのに少し驚いていたけど、すぐに解説してくれた。
「今、総合格闘技の最大手はアメリカの『アルティメットフォース』。でも日本にも大きな団体がある。『RFC』、正式な名前はリアルファイティングチャンピオンシップ。麗艶はそこのストロー級チャンピオン」
「ストロー?」
「女子の階級は軽い方から数えて、アトム、ストロー、フライ、バンタム。RFCでの女子の階級はこの四つのみ。男子になるともっと重い階級がある」
相変らずやや早口で辞書のように事実を述べる。
ただその言葉の端々から熱を感じる。
「でもなんでストロー級なの?」
「私はその先を見据えている」
私が首をかしげると、アスカちゃんは説明を加えた。
「アルティメットフォースの女子部門で一番軽い階級がストロー級だから。アトム級はない」
「世界かあ。かっこいいなあ」
「それに」
「それに?」
「麗艶が階級を抜きにした場合、RFCの女子選手の中で一番知名度が高くて、一番強いから」
アスカちゃんにここまで言わせるとは。
麗艶という選手が気になった。
「どんな選手なの?」
「わかりやすく言うと、関節技や絞め技が得意。プロになってからいままで負けなし。寝技でいくつもの罠を仕掛け、対戦相手を仕留めることから、ニックネームは『トラップクイーン』と呼ばれている」
「強い選手なんだね。教えてくれてありがとう」
そこへジュリちゃんが口を挟んできた。
「まだ情報としては不十分よ」
「不十分?」
私のおうむ返しに、ジュリちゃんが得意げに解説を展開した。
「あいつはね、リングの外でも有名なのよ。男にだらしなくて私生活も荒れ放題。まあ、とにかく下品な女なのよ」
なんというか、恨みでもあるかのようなネガティブキャンペーンだ。
「でも強い」
アスカちゃんがボソリと言った。
「それでも私よりは弱い。悪いけど、麗艶を倒すのは私だから」
同じ階級ということもあり、互いが互いをライバルとして見ているからなのか、二人が話すときはどこか緊張感が漂う。
「好きにすればいい。それなら私は麗艶を倒したあなたを倒す」
アスカちゃんにとっては、あくまでもチャンピオンになることが一番の目的だということだろう。
倒す相手が誰かは問題ではないのだ。
「言ってくれるじゃん。そのときは私の三角絞めで絞め落としてやるから」
そう言うと、再び私たちから離れ、柔軟体操を再開した。
私はジュリちゃんに聞こえないよう小声で話した。
「なんというか、勝気な子だよね」
アスカちゃんは頷いた。
「麗艶の話題が出たのもあると思う」
「嫌いなのかなあ」
「嫌い、というより憎んでいる」
「二人の間に何かあったの?」
私の問いにアスカちゃんはしばし沈黙した。
話していいかどうか迷ったのだろうが、やがて重い口をゆっくり開いた。
「麗艶は強い。でも強いのと同じくらい悪い噂が多いのも事実」
「私生活が荒れ放題ってジュリちゃんが言ってたけど、それと関係あるの?」
アスカちゃんは頷いた。
「さっき麗艶はトラップクイーンと呼ばれていると言ったけど、もう一つ呼び名がある。それが『家族クラッシャー』という異名」
家族クラッシャー……。
あまりカッコよくない異名だ。
アスカちゃんは続けて言った。
「麗艶は恋多き女。しかも家庭を持っている男の人とよく恋に落ちる。結果としていくつもの家庭を崩壊させてきた」
アスカちゃんの説明で異名の意味がわかった。
いわゆる不倫というやつだろう。
ドラマの中だけでしか観たことないので、詳しく知らないけれど。
「まさかジュリちゃんの家庭もそれが原因で?」
私が言いかけたところで、ジュリちゃんの一喝が入った。
「そこ! こそこそ話ならもっと聞こえないように言いな!」
聞こえてしまっていた。
私はあわてて謝る。アスカちゃんも頭を下げた。
「まあいいわ。みんな知ってるしね」
「ジュリちゃんは、その、復讐のために闘っているの?」
キレられないか心配で、おそるおそる問う。
意外にもジュリちゃんは平然と答えた。
「それもあるっちゃあるけど、それだけじゃない。私が闘うのは格闘技が好きだからよ。私の両親はどちらもブラジリアン柔術をやっていて、そこそこいい戦績だったのよ。特にお母さんはかなり強くて、子どもながらにカッコいいと思った」
「ブラジリアン柔術? うちのジムにも柔術クラスってのがあるけど、それと関係あるの?」
ジュリちゃんは呆れ顔だ。
「あんたねえ。総合やるんだったらブラジリアン柔術を知らなきゃ恥よ」
アスカちゃんがまた早口で解説してくれた。
「ブラジリアン柔術は、寝技に特化した格闘技。打撃がなく、道着を着て試合をするのが総合との主な違い。関節技のバリエーションが柔道よりも豊富なのが特徴。かつて日本の柔道家がブラジルに伝えた柔道が独自に発展したもの。寝技の展開が多い総合格闘技においてとても重要な技術」
「だからジュリちゃんは寝技が巧いんだね」
すると得意げに胸を張った。
「まあね。このジムで柔術クラスのインストラクターもしてるし、これでも柔術の黒帯だし」
アスカちゃんがまたもや解説してくれた。
「帯の色は白、青、紫、茶、黒とレベルが上がるごとに変わっていく。特に黒帯になるとみんな寝技が強いと思っていい」
ジュリちゃんはまんざらでもなさそうで、頬を緩ませていた。
でもすぐに口元を引き締め、アスカちゃんに宣戦布告をした。
「そうなのよ。私は柔術の黒帯。なのにアンタから一度も一本を取れてない。今日こそ息の根を止めてやるわ」
まるで悪役のような台詞を吐くジュリちゃんにアスカちゃんもまっすぐな瞳で応じる。
「押忍! 返り討ちにする」
殺伐とした会話の内容だが、その実、互いが互いを認め合っていて、いいライバル関係だとほほえましくなった。
同時に寂しくもあった。
ジュリちゃんはアスカちゃんと同じ地平にいる。
でも私はそこまでには達していない。
まもなく練習が始まる。
会話を終えた私はぼそりと、ひとりごとを呟いた。
「私も、いつかアスカちゃんの隣に」
おこがましいかもしれないけど、諦めたくはなかった。




