9.禊
焚火の近くに座り直したナタリーは、クサヴェルが持ってきた水筒を受け取る。
それを恭しく両手で捧げるように持ち、静かに祈りを唱え始める。
「天地創造の折、光を与えし我らが主よ。迷える我らに導きの光を賜りし主よ。その御許より溢れし慈悲の光で、……穢れを洗い流し、我らに祝福を。……祝福を」
唱え終えると、水筒を開け、クサヴェルが持っていた肉に水を振りかける。
そして、燃え盛る火の中へ、扇ぐように何度も肉を出し入れした。
一瞬で火の中を通り抜けるためか、枝や肉には火が燃え移っていない。それでもクサヴェルは、はらはらしながらその光景を見守った。
「穢れを払いたまえ。この身を清めたまえ。祝福を与えたまえ……」
ナタリーは同じ言葉を何度も繰り返す。
「穢れを……払いたまえ。この身を清めたまえ。祝福を与えたまえ。穢れを払いたまえ。この身を清めたまえ。祝福を……与えたまえ……」
途中でつっかえながらも、ナタリーは繰り返し唱えることをやめなかった。
火の中から、匂いがしてきた。木が燃える臭いと、肉が焼けて脂が燃える匂いが混ざったものだ。かぐわしいその匂いが二人の嗅覚を刺激する。
どれほど炙っただろうか。肉の表面が黒く焦げ、枝も真っ黒になった。いつか折れるのではないかと心配していたクサヴェルの前で、ようやく彼女は祈りを止めた。
肉を持つ手が震える。
「…………。ふぅー……」
息を大きく吐く。両手で枝を握り締める。それでも手の震えは止まらない。
「……これは、裏切りではない」
ナタリーが呟く。
「生きるため。生きて、使命をまっとうするため……。大丈夫。禊はした。神は許してくださる……」
自分に言い聞かせるように何度も呟く。
口を開く。が、肉に届く前に閉ざされる。二度、三度とそれが繰り返され、たまらずクサヴェルは言った。
「手伝おうか?」
「いらない」
食い気味に返された。身を乗り出したクサヴェルはすごすごと引き下がる。
ナタリーは口を開けた。肉の匂いですでに口の中は唾液で溢れている。
大丈夫。禊をしたのだから、この肉はもう穢れていない。
ゆっくりと、時間をかけて肉に歯を近付ける。
上の歯が硬いものに触れた時――こみ上げてきたのは吐き気だった。
「っ――! おえっ、げほっ」
顔を背けて嘔吐したナタリーに、クサヴェルは駆け寄った。
「だ、大丈夫!?」
「来るな!」
肘で押しのけられた。かすかに酸っぱい匂いがする。
クサヴェルは中途半端に尻もちをついたまま動けなかった。空中で伸ばされたままの手が止まり、ゆっくりと落ちる。
(……なぜそんな顔をする)
ナタリーは喉を焼く胃液を吐き出して、手にしている肉を睨んだ。
(ちゃんと教会で祈られた聖水でないと、しっかりした手順を踏まないと、やっぱりだめなのか)
でも、その手にはまだしっかりと肉を握り締めている。それがナタリーには悔しくてたまらなかった。
(……神よ)
もう一度、心の中で祈る。
(どうか、どうか……お許しください)
まだ手が震える。焦げた肉の匂い。そこに小さく歯を立てる。今度は吐かなかった。けれど、なかなか噛み切れない。
焦げて硬くなった表面を、かりかりと齧歯類のように何度も歯を動かして繊維を断つ。
舌が肉に触れる。苦い。先ほど食べた草とどっちがマシだろうかと考えた。
その思考は、噛み切れて口内に転がり落ちた肉の、野趣と滋味溢れる味わいで掻き消えた。
(――美味しい)
そう思ってしまった自分に吐き気がした。
吐き出したかったのに、咄嗟に口を塞いでそれを防いでしまう。
胃が、体が、はやく寄こせと言っている。
栄養を、――生きるための糧を。
ナタリーはぎゅっと目を瞑って飲みこんだ。上を向いた拍子にフードが落ちる。
肉が胃に落ちる。体が温かくなる。体力が回復していくのを感じた。
「…………ぁぁ」
ナタリーの口から、音が零れ落ちる。
一度乗り越えてしまったら、あとは簡単だった。
一口、また一口と、肉を噛み切って飲みこむ。
眉間には皺が深く刻まれ、目は焚火をじっと睨んでいて。
苦しげな顔で肉に食らいつく彼女を、クサヴェルは黙って見守るしかなかった。
「火の番は私がする。お前は寝ろ」
肉を食べ、刺さっていた枝を焚火に放り込む。フードを被り直した後、ナタリーは静かにそう言った。
「え、おれがやるよ。疲れただろ?」
「悪魔憑きと同衾なんかできるか。それに、私が眠っている間に貴様をどこかへ逃がすなんて愚は犯させない」
「そんなことしないよ。……じゃあ、しんどくなったら言ってよ? おれ、どこにも行かないから」
「見張っているぞ」
「はーい」
クサヴェルはリュックを枕代わりにすると、仰向けに寝転がった。
「……君も旅をしている時は、こうやって見張りをしていたの?」
「そうだ。異端者の集団や、魔物の群れに遭うことも少なくないからな」
「辛くない?」
「すべては神が下された試練だ。我々はそれを乗り越え、御使いとして成長する」
「そっか……。楽しい?」
「試練が楽しいなんてことはありえない」
「いや、そうなんだけどさ。楽しかったこととか、ないの? そういう思い出とか」
「貴様に語るものなんてない。早く寝ろ。それとも、永遠に寝かせてやろうか?」
「寝る、寝るから! おやすみっ!」
クサヴェルが慌てて背を向けた。ナタリーはそれを見て、静かにため息をつく。
(……楽しかった記憶など、あるものか)
心の中でひとりごちる。
(この世界で生きるには、教会に入るしか道はない。皆そうやって教会のために、神のために働き、生きて、そして死んだのだ)
その安らかな寝顔は、今も覚えている。
(祈りが届いて、天授者になった時はとても嬉しかった。これでもっと神様のために働けると)
なのに。
(……教えを、破ってしまった)
ナタリーは自分の膝に顔をうずめた。
(魔物の肉は禁忌だ。たとえ禊をしたとしても、その穢れが完全に取り払われるわけではない。あの毛皮と干し肉は、いずれどこかで燃やされているだろう。悪魔憑きがあれを食べるのは、同族を食べるから気にしていない。でも……私は)
自分の手を見る。汚れていないはずなのに、あの狼の血がべったりと付いているように思えた。
(天使様の加護がなくなったらどうしよう)
自分の胸に留めているブローチを見る。触れることが出来れば、まだ天授者だ。だけど触れられなかったら、ただれてしまったら。
そう思うと怖くて触れなかった。
(私は、聖騎士失格だ)
火が小さくなる。
ナタリーは灯りを絶やさないために、枝を放り込む。
パチッと枝が弾けた。




