30.東の谷
「ああ、くそっ。貴重な〝水〟が……!」
「今はそれどころじゃない! おい、進めそうか?」
「はい、上に隙間があります。一人ずつなら……」
ドォン、と地響きに似た音が響く。聖騎士たちは思わず身をすくめた。
遠くでなにかが崩れる音がした。おそらく、また進路を塞ぐために壁を叩いたのだ。
「……ナタリー副団長」
誰かが呟く。
「本当に、異端者になっちゃったんですね」
誰も答えない。土埃が薄く舞う。
「……まっすぐ進んでも時間がかかる」
やがて、隊長格の聖騎士が呟いた。
「このまま進んでいけば、おそらく東の谷に向かう。そこへわざと誘い込むぞ」
「殺さないのですか?」
驚く部下に隊長は答える。
「死なないというのなら、自分から死にたくなるようにしてやるまでだ」
◆ ◆ ◆
気が狂いそうになるほど同じ景色の中を進み続けて、どれほど経ったか。
定期的にナタリーが道を塞いでくれているおかげか、追手の気配はなくなっていた。
「あ」
しばらく走っていると、壁にぶち当たった。
行き止まり、ではない。朽ちかけているが梯子が上に伸びていた。見上げれば、黒っぽい空が丸く切り取られている。
「先に行く?」
「追手が先回りしている可能性がある。お前が先に行け」
クサヴェルは頷いて、梯子にそっと足をかけた。ミシミシと鳴ったり、柔らかくなっている場所もあったが、耐久力はぎりぎり残っているようだ。
慎重に一段ずつ登っていき、最後の三段は腕の力だけで飛びつくように登った。
あたりには、誰もいなかった。
なぜこんなところに井戸が、と思うほどなにもない。大きな家の屋根と思しきものが、骨組みだけ残して力なく置かれていた。
クサヴェルはそっと井戸から這い出て、中に向かって手招きする。
ナタリーが上がってくるまで、彼は注意深く周囲を見回した。あたりには雪がかすかに残るだけ。隠れられる場所はほとんどない。かといって、遠い地平線の向こうからなにかが来ている様子もない。
ナタリーが慎重に井戸から顔を出した。
「追手は?」
「いない。たぶん」
「よし」
彼女も井戸から出たのを見て、クサヴェルは訊ねる。
「東の谷ってどっち?」
「こっちだ」
ざっと辺りを見回して、ナタリーは屋根の残骸の向こうへ歩き出した。念のため屋根の裏側も警戒していたが、誰もいなかった。
「谷って言うけど、越えられるの?」
「越えられないだろうな。何百年も前の天変地異でできた、巨大な裂け目だと言われている。教会の地図で見ただけだが、簡単に飛び越えられるような大きさではなかったぞ」
「へー……え?」
しばらくと歩かずに、クサヴェルは自分の目を疑った。
「ちょっと待って。向こうに崖があるんだけど」
「ああ、見えるな。これほど井戸に近いとは思わなかった、けど……」
言葉を失う。
手前の崖と、奥の崖。見えるのだから意外と近いのでは、と期待してしまった。
うすぼんやりと見える砂色の壁。向こうの緑地も見えるが、そこに立っている木が親指ほどの大きさに見える。
崖と崖の間の距離は計り知れない。人間の歩幅では到底たどり着けない距離。
下を見れば、どこまでも深い奈落が広がる。落ちればまず全身がバラバラになるだろう。かといって慎重に降りられる場所を探しても、手足を引っかけられる場所がない。長年の風雨によって、嘲笑うほど滑らかな面ができていた。
「……これは、ちょっと……」
「……私も予想外だ」
並んで崖の淵に座る。
「もうちょっとデコボコしてくれれば、時間がかかっても降りられると思ったんだが」
「この高さはちょっと、いやかなり怖い。おれも覚悟決める時間が欲しい」
「その必要はない」
不意に第三者の声が響いた。振り向く前に、二人になにかが掛けられる。
「うわっ、なにこれ、くさっ!」
「……いつのまに」
顔に滴る液体を鬱陶しそうに拭いながら、ナタリーは聖騎士らを見る。
後ろで金属音がしたと思えば、火が見えた。ナタリーは後ずさろうとして、後がないことに気付く。
彼女を守るように、クサヴェルは前に出た。
「追ってきたんだ。しつこいね」
「悪魔憑きと異端者は必ず殺す。それが我ら教会の存在意義だ」
後ろで火がなにかに移される。聖騎士たちが動いて、火がよく見える。
「異端者よ」
聖騎士はナタリーをそう呼んだ。
「なぜだ。貴殿は優秀な聖騎士であった。なぜ悪魔憑きの側に堕ちた!」
「……個人の意思を持たず、神の意思を代行する。それが聖騎士の在り方だ」
ナタリーはゆっくりと答える。
「私は自分の意思に気付いた。考えを知った。なにが好きで、なにが嫌いか。……もう私は、貴殿らのような人形ではない。一人の人間だ」
「……そうか」
聖騎士は一瞬だけ目を伏せた。
「残念だ」
後ろの聖騎士たちが弓を構える。番えた矢の先に、火が揺らめいていた。
「……〝禁忌の水〟か!」
ナタリーが声を上げる。聖騎士の一人が頷いた。
「さすがに知っていたか」
「なに、それ?」
クサヴェルが小声で訊ねる。
「教会が保管、管理している旧時代の道具の一つだ。臭いがよく燃える。それに水が燃えているから、ただ水をかけただけでは簡単に消えない」
「……ちょっと待って、もしかしておれたちにかかった水って……?」
「理解が早くて助かる」
聖騎士がどこか嘲笑うように言った。
手が上がる。弓が引き絞られる。
「この世から塵も残らず消え失せろ、悪魔憑き!」
手が振り下ろされた。
同時にクサヴェルは、ナタリーを抱きしめて崖に向けて飛んだ。
向かう先は奈落。冷たい風が二人を包む。内臓がぐわっと持ち上がる恐怖。
水や風の冷たさだけではない。頭の先から爪先まで、一気に体温が下がった。
「……!」
ナタリーはなにか言おうとした。舌がもつれてうまく言葉にならない。
黒い空の向こうからは、火矢が飛んでくる。あれがかすりでもしたら、一瞬で二人とも火だるまになる。
火が、迫る。
「……いや」
つい数十分前の恐怖が甦る。
熱くて、息苦しい。存在を否定されたような熱量。
「いやだ」
ナタリーはクサヴェルの服をぎゅうと握りしめた。
「嫌だ! 死にたくない!」
仮に死ぬんだとしても、もう火に包まれるのはごめんだ!
「大丈夫!」
ナタリーの頭を、体を、クサヴェルが抱きしめ返す。
「ナタリーを死なせない! 俺も死なない! 二人で生き延びる! 絶対に!」
凛とした声だった。どこから来るかもわからない、自信に満ちた声。
ナタリーの強張っていた体が緩んだ。同時に、停止していた思考が再起動する。
(……そうだ。触れさせなければいいんだ)
火矢が迫る。しかしそのスピードは恐ろしいほど遅い。
ナタリーは左手でクサヴェルを掴んだまま、右手でブローチを探り当てた。
濡れていたらどうしよう、と一瞬躊躇う。
だけど、あれを撃ち落とすにはこれが一番だ。
手の中でブローチが大きくなる。
聖武具は、所持者の意思によって自在に大きさを変えられる。
だったら、普段よりもずっと大きくすることも可能だ。
ナタリーには、それを振り回すだけの力が与えられてる。
「っらあ!!」
気合を込めて、一閃。小気味いい音を立てて、矢の群れがことごとく撃ち落とされた。
追撃の矢は来ない。
「すごい!」
目で追っていたクサヴェルが感嘆の声を上げた。斧をブローチに戻したナタリーは、得意げに鼻を鳴らす。
「ふん、伊達に最年少で旅団副団長に任命されたわけではない」
「すごいや。……あとはおれに任せて」
ぎゅっと、さらに力強く抱きしめられる。
空中で体を捻り、クサヴェルが地面に背を向ける形になる。
ナタリーは彼の胸にしがみついて、ただその時を待った。
クサヴェルは死なない。彼がそう言ったから。
やがて、小さくなにかが潰れるような音が、谷底から響いた。




