31.エピローグ
「そうか。悪魔憑きと異端者は東の谷に落ちたか」
「はい。遺体の確認はできませんでしたが、いかに不死と言えど、あの高さから落ちればまず助からないかと」
「そうだな。それに、あの崖を再び登れるとは思えん。……だが、用心するに越したことはない。しばらく、交替で一旅団が崖の警備にあたるのだ」
「はい」
聖騎士が去った後、教皇は席を立って窓辺に向かった。
教会の中で一番高い場所にある部屋。そこに大きく作られた窓は、日の光を存分に室内へ採り入れてくれた。
「不死の悪魔憑きめ」
教皇は一人、苦々しく呟く。
「逃げられると思うなよ。この世に貴様らのような死者は不要だ。正しき清浄なる世界に、貴様らの居場所はない」
紡がれる言葉は、祈りではない。
いつの頃からか、彼は祈るよりも呪う時間が多くなった。
「世界は我ら教会のもの。我ら以外に力は不要。故に、管理できない力など不要なのだ」
窓の外には町が見える。
教会の庇護を求めて集まってきた愚かな人々の群れ。
教皇はそれを一瞥すると、身を翻して執務机に向かった。
天授者やただの聖騎士の管理も自分の仕事なのだ。
身内から異端者が出たなどと言う報告はもみ消す。そんなものは最初からいなかった。
静かにペンを執り、書類に目を通してサインをする。
それはお茶や蝋燭の交換に訪ねる部下たちが見る、いつも通りの教皇の姿だった。
◆ ◆ ◆
「……おお、本当にあった」
暗く深い谷底を歩くこと一ヵ月。
クサヴェルは今にも閉じてしまいそうな裂け目を見て声を上げた。
「これも天変地異によるものか? ……いや、なんにしろ、上に出られるのはありがたい」
続いて裂け目を覗き込んだナタリーも頷く。
クサヴェルは来た道を振り返った。
「ありがとう、助かったよ」
ウオオオオ、と微妙に高い声で応えたのは異形だった。
全身が黒い泥で覆われている。長毛種の鹿のようにも見えるが、額から伸びる一対の角は大樹のように広がり、目は不気味に光っている。絶えず全身から湧き出て落ちる泥はじゅうじゅうと地面を焼いていた。
クサヴェルとナタリーは、谷に落ちた際この異形の真上に落ちた。クサヴェルと異形がお互いに脳天をぶつけ合い、クサヴェルが勝ったのだ。
「いっっっ……たあ!?」
「痛いで済むのか!?」
というナタリーのツッコミはさておいて、泥による火傷を避けるためにふらふらしながら逃げる。
驚いたことに、この異形は頭が潰れたというのにすぐさま復活した。ぶるぶると全身を震わせて泥をまき散らし、「あーびっくりした」と言わんばかりに立っている。それからこちらをじっと見つめていた。
今までであった魔物と違い、襲う気配がない。
「痛い痛い痛い、やばい、泥が入った!」
呆然としているナタリーの横で、クサヴェルが慌てて服を脱ぐ。
「ちょっとごめん、取って!」
「あー、はいはい。じっとしていろ」
ブローチを手斧程度の大きさにして、ナタリーは背中に回った。幸いにもあの異形はまだ動かない。ゆっくりと垂れてくる泥を斧ですくい上げるようにして取り、そこらに捨てる。じゅうと地面が焼かれた。
「……ん?」
火傷の痕がみるみるうちに消えてく背中の左上。心臓の裏に位置する場所に、ぼんやりと浮かび上がるものがあった。
「…………」
「ふー、助かった。ねえ、もう服着るよ?」
「…………」
「あれ? もしもし?」
クサヴェルが振り返る。
ナタリーは目を大きく見開き、息をするのも忘れて彼に――正確にはその背中に浮かんだもの――見入っていた。
「どうしたの?」
「……な、……こ」
「ん?」
「き……っさま! こんなわかりにくいところに痣を発現させるな!!」
「うお!?」
持っていた手斧を振り下ろされ、クサヴェルは間一髪で避けた。
「痣!? 痣って悪魔憑きの……!?」
「違う! 天授者だ!」
「え?」
クサヴェルは目を瞬かせた。ナタリーは目を吊り上げて、自分の右手袋を取った。
「見ろ、これが天授者の痣だ」
手の甲をクサヴェルに見せながら、ぐっと拳を握り込む。そこにぼんやりと浮かび上がったのは、月桂冠の中に十字を入れたような文様だった。
「天授者は体のどこかにこの痣が発現する。私のようにわかりやすい者もいれば、足の裏に発現した者もいる。……貴様はここ、心臓の裏だ」
ナタリーが回り込んで、痣がある場所を指で突く。
クサヴェルは口を半開きにしたまま動けなかった。ナタリーは指を離して続ける。
「まさか、お前が悪魔と天使、両方から加護を受けていたとは思わなかった。道理で聖武具が通用しないわけだ」
「……えーと」
「檻型の聖武具は力が強い分、扱いの難しい部類のものだ。あれに限っては悪魔憑きとしての力の方に強く作用したのだろうな」
「……つまり? どういうこと?」
「前代未聞の加護持ちだというわけだ」
ナタリーは言った。
「悪魔か天使か知らないが、言霊の力は強力だ。『おれは無敵だ』なんて言った日には、本当に向かうところ敵なしになる。それを教会が知れば、殺すどころかなんとしても手駒にしたいと血眼になるだろうな」
「えー、また追われるの?」
「この崖から落ちて無事だとは思われないだろうが……。生きていると知ったら本当に狩りに来るぞ」
「絶対に嫌だ」
語気を強めてクサヴェルは言った。
「もう教会には近付きたくない。おれはナタリーと一緒に幸せに生きるの」
「だろうな」
ナタリーも肩をすくめた。
「ひとまずお互い生きているが、この先どうする? この谷を越えられる場所なんてあるのか?」
服を着ながらクサヴェルも谷を見上げた。空は狭い。今にも雨が降り出しそうである。それに食べ物があるかどうかも怪しい。
「ウオオオオオ」
「うわっ」
「なんだっ」
不意に響いた微妙に高い声に、二人は飛び上がった。
見れば、それまで微動だにしなかった異形がのそのそと歩き出す。動くたびにじゅうじゅうと地面が焼かれた。
十歩ほど歩いたところで、異形が二人を振り返る。
「……ついてこい、って言ってるの?」
異形がゆっくりと頷いた。
「……どうする?」
「……やみくもに動いても餓死するだけだ。行けるだけ行ってみよう」
もしも罠なら、その時は二人で対処すればいい。
そう思ってついていくと、異形は谷底を流れる小さな川に連れて来てくれた。
さらに進むと、実がなっている木に案内してくれた。そこで雨宿りをし、できるだけ実をもいだら、川に沿って歩いていく。
それを繰り返して、一ヵ月。
二人は谷の上に続く裂け目に辿り着いた。
「ちなみに、一緒に行かないの?」
クサヴェルが訊ねると、異形は鳴きながらゆっくりと首を振った。
「ここは貴様のテリトリーか?」
鳴きながらゆっくりと頷く。
「そうか。邪魔して悪かったな」
鳴きながらゆっくりと首を振った。
「じゃあ、行くね。ありがとう。あと、真上に落ちちゃってごめんね」
「世話になった」
二人がそう言うと、異形は
「ウオオオオオ」
と一際微妙な声を上げた。それからゆっくりと踵を返していく。
「行こっか」
「ああ」
クサヴェルとナタリーは崖の裂け目を登り始めた。急な傾斜だが、登れないわけではない。両脇のデコボコした岩肌を掴みながら登っていけば、やがて地上に出た。
「……わあ」
一歩、二歩、三歩。そこでクサヴェルの足が止まる。
見渡す限りの草原だった。色とりどりの花が風に揺られている。木も生えているが、森や林と言うには物足りなかった。
対岸で見ていた景色が目の前にある。こんなにも緑が鮮やかだっただろうか。花の匂いは、こんなにも濃かっただろうか。
「……素晴らしい景色だな」
隣に並んだナタリーが呟く。
「うん」
「行く当てはあるのか?」
「ないよ」
「だろうな」
ナタリーは小さく笑う。
隣に立つ少年を見やる。
「私を教会から逃がしたんだ。そのうえ、私を幸せにしてやると豪語したのだから、責任は重大だぞ?」
「もちろんそのつもりだよ」
クサヴェルも少女を見つめる。
「二人で一緒に幸せになろう。そのためにも、とりあえず人がいる場所に辿り着けたらいいな」
「短剣があるから動物は解体できるだろうけど、水筒やロープとか、装備品を丸ごと奪われたからな。また盗んだり奪ったりするのか?」
「もちろん」
ナタリーはため息をついた。
「はあ。……生きるためか。仕方がない」
「そうそう。生きていれば幸せになれるんだ。ちょっとの悪事くらいどうってことないよ」
「お前が言うと説得力があるな」
ナタリーは口元にだけ笑みを浮かべて、振り返った。
はるか向こうの崖には、似ているけれど違う景色が広がっている。どこか寒々しい大地から目を離し、隣の少年の背を叩く。
「行くぞ、クサヴェル」
「うん」
頷いたクサヴェルは、目を見開き、口元をわななかせた。
「いっ、今、名前! 呼んでくれたよね!?」
「お前も散々呼んでいただろうが。命の危険がある場面でここぞとばかりに」
「そうだけど! ねえ、もう一回! もう一回呼んで!」
「呼んでと言われたら呼びたくなくなるだろう」
「そんなあ!」
谷を離れる二人の後ろを風が通り抜ける。
春の温かさを含んだそれは花や木の葉を揺らし、命を喜ぶようにざわめいた。
世界は変わらない。
それでも少年は、少女と共に幸せを求めて旅をする。
了
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