18.堕ちる
どれくらいそうしていただろうか。
クサヴェルの耳が、ナタリーの声を拾わなくなった。
泣き止んだのか。それとも、泣き疲れて眠ったのだろうか。
もし眠っていたら、服をかけてあげなくては。このままでは寒さで凍えてしまう。
「……えっと、振り向いてもいい?」
控えめに訊ねてみる。
「……ダメだ」
かすれた声が返ってきた。起きていることに安堵する。
クサヴェルの後ろで、体を起こすようなかすかな音を聞いた。
「……貴様は呑気だな」
唐突にナタリーがそう言った。
「え、なに? 急に」
「呑気で、楽天家で、自分のことしか考えていない。他人の思想なんてくそくらえだと思っているだろう?」
「そこまで思っていないよ! ていうか、え? なんで急に怒られてるの?」
「怒っていない。罵っている」
「余計にひどい!」
「人が悩みや教義の隙間で苦しんでいる時に、なにも考えていないようなのほほんとした顔でいれば腹も立つだろう」
「君ってどこに目があるの? ……そんなに能天気に見えた?」
「ああ」
ナタリーが即答すれば、クサヴェルは「そっかぁ」と嬉しそうに返す。
「なぜ嬉しそうなんだ」
「おれも結構世の中を恨んだりとかしたからさ。なんで誰も助けてくれないんだとか、なんで奪うんだとか。でも必死に生きてたら、なんか虚しくなっちゃってさ」
クサヴェルの言葉に、ナタリーは黙って耳を傾ける。
「それで、どうせ幸せになるんだったら、恨むより楽しいことを探した方がいいなって思ったんだ。今日はご飯を食べられたとか、屋根の下を借りられたとか。野宿してても、毛皮があったかいなとか、星が綺麗だなって。そう思うようにしたら、なんだか楽しくなってきたんだ」
「本当に能天気だな」
ナタリーは吐き捨てた。
「そうじゃなきゃ、誰も守ってくれない世界で幸せなんか見つからないって」
クサヴェルは背を向けたまま答える。
「……誰も、か?」
「うん」
「教会もか?」
「存在は知っていたよ。でも実物を目にしたのは、君たちが初めて」
そこから沈黙が続いた。ナタリーからの返事がないことに首をかしげつつ、クサヴェルはそれ以上続けない。
「…………。本当、か?」
やがて、ナタリーが声を絞り出した。
「教会の、光が……、届かない場所が、あるのか?」
「あるんじゃない? 少なくとも、俺が一度死んだ場所じゃあ教会なんてなかったよ」
「ぁぁ……!」
かすれた吐息のような声だった。悲鳴を飲みこんだようにも聞こえるそれに、髪をぐしゃぐしゃとかき回すような音がかぶさる。
「教会は、この世界の最後の砦だ。人が人らしく生きられるための最後の砦だと。私はそう教わった」
「そっか」
「貴様は、なぜ生きていられる? 悪魔憑きだからではない。教会の教えがなくて、どうやって生き延びた!?」
「……死にたくなかったから」
「は……?」
「誰だって、死にたいと思って死ぬ奴はいないよ。だから、今日を生きるために、奪うんだ。食べ物も、着るものも、毛布も、火も。差し出せる余裕なんてないよ。そんなことをしたらぜんぶ奪われる」
「…………」
「奪われる前に、相手が持っているものをぜんぶ奪うんだ。そうしないと、あの場所じゃ生きていけなかった」
「……それで、貴様は旅をしているのか」
「うん。あんなところじゃ、幸せなんて夢のまた夢だったから」
会話が途切れる。時々、お互いが身じろぎした時のわずかな気配だけが空気を動かした。
「…………。悪魔憑き」
ナタリーが言った。
「貴様は今、幸せか?」
クサヴェルは唸る。
「うーん……。一人で旅をしていた時より、楽しいよ」
「私には、楽しいも、幸せも、わからない」
聖騎士はそう言った。
「教会……騎士団に求められるのは、規律と協調性、そして信仰心だ。神の代行者としてこの世界を監視し、時には清浄のための尖兵となる。そこに私情は必要ない。すべては神が与える試練と祝福なのだ。……だが」
ナタリーの声が暗くなる。
「村から神への供物をいただく理由がわからなかった。貴様が言うとおり、我々が徴収することで飢えて滅ぶ村は絶えないだろう。抵抗する異端者も見てきた。彼らを処刑したことも一度や二度ではない。……その断末魔が、今も耳を離れないんだ。俺たちを殺そうとするあんたたちが悪魔だ、と」
クサヴェルはなにも言わなかった。ナタリーは続ける。
「異端者の戯言だと、最初は片付けようと思った。だけど、何度も巡礼をするうちに、わからなくなっていったのだ。これは本当に正しいことなのかと」
クサヴェルは口を開いた。
「……君は、正しいと思った?」
「……わからない。わからないから、蓋をしていた。神の教えに疑問を持つことは、異端者のすること。だから、悟られないようにずっと考えないようにしていた」
一呼吸おいて、ナタリーが訊ねる。
「なあ、悪魔憑き。貴様はどう思う。こんな私を滑稽だと笑うか? それとも、異端者同士手を取り合おうと言うか?」
自嘲をたっぷり含んだ問い。クサヴェルは土壁を見つめたまま答えた。
「おれには、難しいことはよくわからない。だから一個だけ答える。おれはやっぱり教会が嫌いだ。だって、このままじゃ君は異端者として殺されるんだろ? それは絶対に嫌だ。君を死なせたくない」
「貴様の幸せのためにか?」
「君の幸せのためだよ」
即答されて、ナタリーが言葉に詰まった。
「今まで、ずっと教会の言いなりだったんだろ? でも、教会のやり方に『違う』って思い始めたんだよね。そう思っただけで異端者扱いするなんて、おれは嫌だ。だって君が好きなものとか嫌いなものとか、まだ知れてないんだもん」
その声は底抜けに明るくて、飄々としていて――つまり、いつも通りだった。
クサヴェルの声がナタリーの胸に染み込んでいく。不可視の塊が溶かされていく。
「……ははっ」
ナタリーは笑った。さっきのように不意に出たものではない。
自分で決めて笑ったのだ。
「本当に不思議な奴だな、貴様は」
ああ、そうだ。教会では笑うことなどなかった。
楽しいことも、面白いこともなかったからだ。
最後に笑ったのがいつかなんて覚えていない。
だけど、どこか胸がすく気分だった。
「えー? 馬鹿にされてる?」
「誉めているんだ」
と言ってから、しまったと思った。
「え、褒められた? やったあ」
「撤回する。呆れているんだ」
「ひどいっ!」
打てば響くようなやり取りに、声を出さずに笑う。
(ああ、よかった)
私はまだ、こんなに笑えるんだ。
「服も乾いてきたな。私が先に着替えるから、まだ後ろを向いていろ」
「はーい。ねえ、着替えたら魚を獲らない? お腹空いた」
「魚がいるとは限らないだろう」
「いたよ。流されている時に見た」
「そうか。また濡れたら敵わない。貴様が下着一枚で獲れ」
「えー……いいけど」
背を向けていても唇を尖らせているのがわかる。
ナタリーは腹筋に力を込めて、声を出さずに笑った。
今まで笑えなかった分を取り戻すかのように。
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