16.ずぶ濡れ
崖から落ちて、川に流されて。
川の流れが穏やかになったあたりで、クサヴェルとナタリーは洞穴を見つけた。
「いいか? 絶対に振り向くなよ? 振り向いたらこの火の中に貴様を投げ入れてやるからな?」
「わかってるよー。……へっくしょい!」
洞穴にくしゃみがこだまする。ナタリーは「親父くさ……」と顔をしかめた。
長いこと水に浸かっていたせいで、二人とも濡れ鼠だ。そのままでは死ぬ可能性もあるため、焚火で暖を取りつつ服を乾かしている。
クサヴェルは洟をすすりながら言った。
「でもすごいね、ここ。誰かの住処だったのかな?」
「さあな。自然に崩れて出来た可能性もある。なんにせよ、助かった」
そう言って、ナタリーは静かに祈りを捧げる。
「……そのお祈りって、孤児院ってところで知ったの?」
「そうだな。育ててくれた職員や、年上の子どもたちがやっているのを見て、自然と」
「ふーん。孤児院に来る前は?」
「さあな。物心ついた頃には、あそこで暮らしていた」
(……いや、最初の記憶が、あの孤児院に向かう道中だった、が正しいか)
しかし訂正するほどのものではない。ナタリーは話を振った。
「そういう貴様はどうなんだ? その年まで一人で生きてきたのか?」
「そうだよ」
あっけらかんとクサヴェルは肯定する。
「なら、あの悪魔憑きが言っていたことは?」
「嘘。……ていうか、別の誰かとおれを勘違いしてる?」
「自分のことを〝兄〟と言っていたからな。……貴様が本当に奴と兄弟だったら、まとめて叩っ斬るぞ」
「だから違うってばー。あいつ、おれのことを変な名前で呼んでたし」
「まあな。それさえも貴様らのシナリオ通りだとしたら、大したものだが」
「ひどいなあ。信じてよー」
「悪魔憑きの言葉など信じられるか」
そこで会話が途切れる。焚火がパチパチ爆ぜる音と、遠くから聞こえる川のせせらぎが横たわった。
「……幸せって、難しいな」
不意に、クサヴェルがそう言った。
「なんだ、急に」
「おれ、幸せになりたいっていつも言ってるよな。幸せって、すごいふわっとしてるじゃん? だから、まずおれが幸せに思うのがなんなのか、そこから始まったんだよね」
ナタリーは静かにしている。クサヴェルは構わず続けた。
「まず、ご飯が食べられること。屋根がある場所で寝られること。床や干し草があったらもっと嬉しい。あと痛いことがない。痛いのは嫌い。あと暖かいこと。寒いのは嫌い」
「好き嫌いで判断しているのか。単純だな」
「でもわかりやすいだろ?」
クサヴェルは言った。
「あとね、君と一緒にいられること。それが今は一番幸せかな」
「こんなことになっているのにか?」
「うん。おかしいよね」
クサヴェルが身じろぎする。膝を抱え直したようだ。
「でも、本当。君と出会って、一緒に旅を……行動をするようになってから、ずっと楽しいんだ。いろんなことがあったのに。楽しいことばかりじゃないはずなのに。それを含めて、君と一緒にいられることが、すごく嬉しくて……幸せ」
ナタリーはなんとなしに彼の背中を見た。
あばらが浮いている。小柄でも聖騎士の鎧を着ているナタリーを軽々と担ぎ上げる力を持っているとは思えないほど、その線は細かった。
「ねえ」
クサヴェルの声でナタリーは現実に引き戻された。
「君は、なにが楽しかった? なにをしていると、楽しかった?」
「…………」
ナタリーは答えられなかった。
「……ない」
掠れるような声で答える。
「え?」
「ない、と答えたんだ。楽しかったことなど。嬉しいことも、面白いと思ったことも」
「…………」
「聖騎士にそんなものは必要ない。求められるのは、神への信仰と、それを忠実にこなす行動力。個人の意思など必要ない」
「…………」
「笑うか?」
「ううん。笑わないよ」
クサヴェルは即答した。
「そうしないと生きていけなかったんだろ? 今まで、ずっと。……おれも、そうだったから」
「なに?」
ナタリーが怪訝そうな声を出す。
「貴様、教会にいたことがあるのか?」
「ううん。でも、生きるのに精いっぱいだったころは、そんなこと考える余裕なんてなかったから。……あのさ」
クサヴェルはそこで一拍置いた。
「おれ……」
努めて平静に。なんてことないように。
「一回、死んでるんだ」
悪魔憑きはそう言った。




