第9話「天使の領分、あるいは10年前の忘れ物」
第9話「天使の領分、あるいは10年前の忘れ物」
◆
タクシーの中で、ノエルが喋らなかった。
これは異常事態だった。
ノエルは普段、移動中にずっと喋っている。「お菓子食べたい」「あのビルきれい」「さっきの収録楽しかったね」「次はどこ行くの」——とにかく喋る。黙っているノエルというのは、天気予報が「明日は太陽が西から昇ります」と言うくらいの異常事態だった。
窓の外を見ていた。
東京の夜景が流れていくのを、ただ見ていた。
「……怒ってる?」
私は恐る恐る聞いた。
ノエルは少し間を置いた。
「むくれてるの」
自己申告だった。
「怒ってるのとむくれてるのは違うの?」
「違う」
「どう違う?」
「怒るのは相手に対して。むくれるのは……なんか、もやもやしてる感じ」
ノエルは窓の外を見たまま言った。
「あの人、あかりのこと『お前のせい』って言ったじゃん」
「……うん」
「ひどいよ」
「でも聖の言いたいことは」
「ひどいよ」
ノエルは繰り返した。
「あかりはあかりなのに。あかりがオタクだったのは、あかりの好きなものが好きだっただけなのに。それを『お前のせい』って言うのは、なんか、違う気がする」
私はしばらく黙った。
「……ノエルって、聖のことが嫌い?」
「嫌いじゃない。でも」
「でも?」
ノエルは窓から視線を外して、膝の上を見た。
「あかりのことを、あかりじゃなくて、自分の話の中心として見てる感じがして。それが、なんか」
「なんか?」
「……もやもやする」
タクシーの中に、しばらく沈黙が流れた。
運転手さんがラジオのボリュームを少し下げた。
「ノエル」
「なに」
「ありがとう」
ノエルは少しだけ、首をかしげた。
「何が?」
「怒ってくれて」
「むくれてるの」
「むくれてくれて」
ノエルはまた窓の外を向いた。
でも、さっきより少しだけ、頬が緩んでいた。
◆
家に帰って、ノエルが先に眠った。
私は一人でリビングにいた。
なんとなく、押し入れの奥を漁った。
卒業アルバムが出てきた。
小学校の。
埃をはたいて、開いた。
六年生の集合写真。
自分の顔を探した。
いた。端の方で、少し俯いて、でもちゃんと写っていた。
次に「つっきー」を探した。
いた。
後列の隅。存在感が薄かった。言われなければ見落とすくらい、静かに写っていた。
これが今の月城聖か。
全然わからなかった。
◆
アルバムを見ていたら、思い出した。
休み時間のことだった。
小学六年生の私は、図書室の隅で雑誌の切り抜きを眺めていた。好きなアイドルグループの切り抜きだった。当時から、そういう子だった。
「かっこいい……尊い……」
一人でそう呟いていた。
今思えば、充分に変な子だった。
そこに、つっきーが通りかかった。
いつも一人でいる、おとなしい男の子。接点は特になかった。
私は切り抜きを見せながら、なんとなく言った。
「つっきーも、これくらいキラキラしてたら、私が毎日拝んであげるのにね」
オタク特有の冗談だった。
そういえば、つっきーはその時、なんか変な顔をしていた。
驚いたような、固まったような、なんか変な顔。
私はすぐに切り抜きに視線を戻して、忘れた。
◆
アルバムを閉じた。
ソファに座ったまま、天井を見た。
あの一言が、聖にとっては「人生の指針」になっていたのか。
私はただの冗談として言って、次の瞬間に忘れた言葉が。
十年間、誰かの中に生きていたのか。
「……知らなかった」
声に出して言ったら、なんか、ものすごく申し訳なくなった。
謝るな、と聖は言った。
そういう話じゃない、と言った。
でも——知っていたら、あんな冗談は言わなかった。
たぶん。
いや、言っていたかもしれない。あの頃の私はオタクの熱量をセーブするという概念がなかった。
どっちにしても、知らなかった。
知らないまま、十年経った。
◆
ベランダに出た。
夜の空気が冷たかった。
東京の空に星はほとんど見えなかった。でも光はたくさんあった。ビルの光、車の光、遠くのネオン。
しばらくそれを見ていた。
ガラス戸が開いた。
「あかり」
ノエルだった。眠れなかったのか、起きていたのかはわからなかった。隣に来て、同じように夜景を見た。
しばらく、二人で黙って見ていた。
「ねえ」とノエルが言った。
「なに」
「あの人は『お前のせい』って言ったけど」
「……うん」
「私は『あかりのおかげ』でここにいるんだよ」
私は少し、止まった。
「あかりが路地裏で拾ってくれたから。ご飯をくれたから。部屋に置いてくれたから。ポエム帳の言葉を使わせてくれたから」
ノエルは夜景を見たまま言った。
「あかりのおかげで、私、この世界が好きになった」
なんか、うまく返せなかった。
「……ノエル」
「なに」
「それは」
「うん」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ノエルは少し笑った。
それから、こちらを向いた。
「だから、譲らないから」
「……何を」
「あかりのこと。あの人にも、誰にも」
ノエルはまっすぐ言った。
いつもの陽キャ全開の顔じゃなかった。
すごく、真剣な顔だった。
私はまた処理が追いつかなくなった。
「……ノエル、それって」
「おやすみ」
ノエルはそう言って、ガラス戸の中に戻っていった。
私はベランダに一人残された。
夜風が吹いた。
頭の中で、なんかメロディが鳴り始めた。
ポエム帳に書いたことのない種類の言葉が、浮かび始めた。
私はそれを、しばらくの間、夜景を見ながら追いかけた。




