第11話「聖域、密談、そして天使が牙を剥いた日」
第11話「聖域、密談、そして天使が牙を剥いた日」
◆
翌朝、コンビニに向かう道が怖かった。
いつもの道だった。駅から五分の、毎日歩いてる道だった。
なのに、怖かった。
角を曲がるたびに、誰かいないか確認した。視線を感じる気がした。気のせいかもしれなかった。気のせいじゃないかもしれなかった。
コンビニが見えてきた。
店の外に、見慣れない人影が二つあった。
スマホを持って、店をちらちら見ていた。
(特定班だ)
確信があった。
オタクなので、わかった。
あの立ち方、あのスマホの持ち方、あの視線の動かし方。推しの情報を集めようとしているオタクの動きを、私は知っていた。
自分がやったことがあるから。
去年、星宮れいのプライベートスタジオを特定しようとして三時間歩き回ったことがある。
一昨年、好きなアニメの声優さんが通ってるカフェを調べたことがある。
……その業が、今、私に返ってきている。
(因果応報だ)
深く反省した。
いや、正確には以前から悪いことだとは思っていた。でも「ちょっとくらいなら」という気持ちがあった。
ちょっとくらいなら、はなかった。
推される側になって、はっきりわかった。
足が止まりかけた。
でもバイトに遅刻するわけにいかない。深呼吸して、帽子を深く被って、俯いて歩いた。
正面入口を通り過ぎて、裏口に回った。
扉を開けると、森くんが立っていた。
「来ると思ってました」
「……待ってたのか」
「裏口を教えてなかったなと思って」
森くんは当然のように言った。
私は少しだけ、ありがとうと言えなかった。
「正面に人いた」
「見ました。二人ですよね。さっきから張ってます」
「……どうしよう」
「仕事終わりも裏口から出られます。俺が確認してから出すので」
「そこまでしてくれるの」
「当然じゃないですか」
森くんはエプロンを手渡してくれた。
「神崎さん。俺たちオタクは、推しの私生活を守るのが義務ですから」
私はエプロンを受け取った。
鼻の奥が、じわっとした。
わかる。
わかりすぎる。
推しが困っていたら全力で守る。推しのプライベートは聖域。推しが笑っていられる環境を、ファンとして守る。それはオタクの本能みたいなものだ。
でも。
(なんで私が守られる側にいるんだ)
私はただのオタクだった。
アイドルに憧れたことはあっても、なりたいと思ったことはなかった。
ノエルに歌詞を使われて、動画がバズって、社長にスカウトされて、気づいたらステージに立っていた。
流れで来たら、こんなところにいた。
推される側にいた。
(なんで? どういう経緯? 誰か説明してくれる?)
誰も説明してくれなかった。
◆
シフトが始まって三十分後、バイト仲間の田中さんに声をかけられた。
「神崎さんってさ、もしかして——」
「田中さん!」
森くんが割って入った。
「廃棄のチェック、まだ終わってないですよね?」
「え、でも——」
「仕事中ですよ。廃棄のチェック、お願いします」
「……わかった」
田中さんが奥に引っ込んだ。
森くんは涼しい顔でレジに戻った。
「……森くん」
「なんですか」
「ありがとう」
「俺は何もしてないですよ」
にこっと笑った。
完全に嘘だった。
全部わかっていてやっていた。
私は前を向いてレジを打った。
なんか、変な感じだった。
コンビニのレジで、いつも通りバーコードを読み取って、いつも通りお釣りを渡して、でも外には特定班がいて、バイト仲間には正体がバレかけていて。
(私の日常、どこに行ったんだ)
半年前はただのフリーターだった。
推しのライブBDを見て、アニメ三本積んで、ポエム帳に誰にも見せない言葉を書いていた。
それが正しい私の姿だった。
なのに今は聖くんとかいう幼馴染のイケメンに告白されていて、天使と二人でアイドルをやっていて、特定班に追われている。
(なぜぇ……)
心の中でそう呟いた。
答えは出なかった。
鼻の奥のじわっとが、まだ続いていた。
推される、ということの重さを、今日初めて少しだけわかった気がした。
推しを守ろうとする人がいる。
私もそういう人間だと思っていた。
でも守られる側になって初めて、それがどれだけありがたいことか、わかった。
◆
バイトが終わって、社長から連絡が来た。
「今から来られますか」
来られます、と返した。
裏口から出た。森くんが「誰もいないの確認しました」と言った。
「本当にありがとう」
「神崎さん」と森くんが言った。
「なに」
「応援してます。ちゃんと、ファンとして」
今度こそ、ちゃんと返せなかった。
頷いて、歩き出した。
◆
藤堂プロのオフィスに着くと、社長が待っていた。
ノエルはすでに来ていた。ソファに座って、お茶を飲んでいた。
「座ってください」
社長は静かな声で言った。
私は座った。
「昨夜、うちのサーバーが落ちました」
「……サーバーが」
「Lumière Angeへのアクセスが一気に集中して。月城聖の投稿からです」
社長は私をまっすぐ見た。
「あかりさん。彼とはどういう関係ですか」
「……幼馴染です。小学校が一緒で、それ以来会っていませんでした」
「再会したのはMUSIC CANVASの収録で」
「はい」
「彼から何か言われましたか」
私は少し間を置いた。
「……付き合わないかと言われました」
社長は表情を変えなかった。
ノエルは表情を変えた。口をへの字にした。
「返事は」
「保留です」
「わかりました」
社長はテーブルに資料を置いた。
「正直に話してくれてありがとうございます。これを受けて、いくつか考えていることがあります」
「……聞かせてください」
「月城聖との関係は、現時点では否定も肯定もしない。でもLumière Angeの名前は一気に広がった。このタイミングで新曲を出せれば、さらに加速します」
「……利用する、ということですか」
「状況を活かす、と言います」
社長の目は冷たくはなかった。
でも冷静だった。
業界で生き残ってきた人間の目だった。
「あかりさん、あなたの言葉は本物です。それが届く場所が増えることを、私は悪いとは思っていません」
また言い返せなかった。
そのとき。
ドアが、ノックもなく開いた。
◆
聖だった。
スーツ姿のマネージャーらしき人が「月城さん! アポなしは困ります!」と後ろで言っていたが、聖は気にしていなかった。
部屋に入って、私を見た。
「あかり。外、すごいことになってるね」
「……知ってる」
「俺のせいだ。ごめん」
「謝るなら最初からするな」
「それもそうだ」
聖は少しだけ、表情を緩めた。
「俺のところに来なよ。守ってあげるから」
手を伸ばしてきた。
私の頭の中で、何かが高速で処理された。
(イケメンに「守ってあげる」と言われている)
(これ、推しのライブDVD特典映像でよく見るやつだ)
(主人公ポジションのセリフだ)
(でも私は主人公じゃなくてオタクなんだが)
(なんでこっち側にいるんだ私は)
(モテてどうする)
(モテてどうするんだ本当に)
(推しのDVDを見たい)
その手が私に届く前に。
パシッ、と音がした。
ノエルが、聖の手を叩いていた。
◆
部屋の空気が変わった。
社長が静かに立ち上がった。マネージャーが息を呑んだ。
ノエルは聖の前に立っていた。
いつもの笑顔じゃなかった。
「守る?」
声が、平坦だった。
「火をつけたのはあなたでしょ」
「……」
「あかりが困ってるの、見てて楽しいの?」
聖の目が、少し細くなった。
「外野は黙ってろ。これは十年前からの約束だ」
「十年前なんて知らない」
ノエルはまっすぐ聖を見た。
「今のあかりの隣にいるのは、私だよ」
二人の視線が、真正面からぶつかった。
聖は引かなかった。
ノエルも引かなかった。
私はその二人の間で、ギターケースを握っていた。
気づいたら、握っていた。
指が白くなるくらい、強く握っていた。
胸の中に、何かがあった。
怒り、とは少し違った。
でも、静かで、確かな何かが。
「……聖」
二人が私を見た。
「私は」
声が、思ったより落ち着いていた。
「あんたに拝まれるためにギターを弾いてるんじゃない」
静寂があった。
「あんたが私のために変わったのは、あんたの話だ。でも私の音楽は、私のものだ。あんたのためじゃない。誰かのためでもない。私が弾きたいから弾いてる」
聖は、しばらく私を見ていた。
何かを考えているみたいだった。
それから、ゆっくりと手を下ろした。
「……そうか」
「そうだよ」
「わかった」
聖は踵を返した。
ドアに向かいながら、一度だけ振り返った。
「でも諦めてないから」
「知ってる」
「答えを聞かせてもらう」
「知ってるって言ってる」
聖は出て行った。
マネージャーが「本当に申し訳ございません」と頭を下げて、後に続いた。
ドアが閉まった。
◆
しばらく、誰も喋らなかった。
社長が静かに座り直した。
「……強くなりましたね、あかりさん」
「……そうですか」
「一話目のあなたとは別人みたいです」
私は握っていたギターケースを、ゆっくり下ろした。
手が、少し震えていた。
ノエルが隣に来た。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「震えてる」
「大丈夫だよ」
ノエルは何も言わなかった。
ただ、隣に立っていた。
それだけで、少しだけ、落ち着いた。




