005話_出会い
その日、俺はメリアに頼まれて、市場に、卵を売りに来ていた。
村の広場には、朝から、いくつもの露店が並んでいた。野菜、卵、蜂蜜、手編みの籠。誰もが、それぞれの得意なものを持ち寄り、賑やかに、声を張り上げている。粉挽き小屋の方角から、焼きたてのパンの匂いが、風に乗って漂ってきた。
俺は、抱えた籠の中の卵が割れないよう、慎重に、人混みの間を縫って歩いていた。前世でいうところの、朝市に近い光景だ。誰もが顔見知りで、値段交渉というより、世間話のついでに、物のやり取りをしているような、のんびりとした空気が漂っている。それでも、今日の分の食い扶持を稼ぐという、切実な意味合いも、確かにそこにはあった。
「あんたが、アオ?」
市場の広場で声をかけられ、振り返ると、俺と同じくらいの背丈の少女が腕を組んで立っていた。日に焼けた頬、きりっとした眉。歳は俺と同じ、五つほどだろうか。麦わら色の髪を、無造作に、後ろで結んでいる。
「そうだけど……」
「あたし、リゼット。よろしくね」
名乗りながらも、その目は俺の頭のてっぺんからつま先まで、遠慮なく観察するように動いていた。物怖じしない、まっすぐな視線だった。
「兄ちゃんの剣、急に上手くなったって聞いたけど。アオが教えたんでしょ?」
いきなりの直球に、俺は思わず言葉を詰まらせた。
「な、なんでそう思うんだ」
「だって、ダリオがそう言いふらしてたもん。『弟に教わったらめちゃくちゃ振れるようになった』って」
(あの馬鹿兄……)
内心で頭を抱えた。悪気がないのは分かるが、自慢したがりなところがある兄だ。市場の隅々にまで、噂を広めているとは、想像もしていなかった。
「教えたっていうか、ちょっと気づいたことを言っただけで」
「ふぅん」
リゼットは疑わしげに目を細めたが、それ以上は追及してこなかった。代わりに、興味津々といった様子で身を乗り出してくる。
「じゃあさ、あたしにも何か教えてよ」
「え?」
「あたし、木登りが得意なんだけど、村長の家の裏の一番高い木だけ、どうしても登れないの。何かコツがあるなら教えて」
急な話だった。だが、断る理由もない。俺は、卵の入った籠を、隣の露店に、少しの間だけ、預けさせてもらうことにした。
俺はリゼットについて、村長の家の裏へと向かった。
(村長の家、か。まさか、な)
自分の家のように迷いなく門をくぐっていくリゼットの後ろ姿に、俺は密かに引っかかりを覚えた。だが、それを確かめる間もなく、彼女はさっさと裏庭まで進んでいく。確かに高い木だ。太い幹に、ところどころ苔がついている。見上げると、木の先が、青空に、くっきりと突き刺さっているように見えた。
「登り方、見せてくれるか」
リゼットが軽々と幹に取りつき、途中まで登っていく。身のこなしは、思っていた以上に、身軽だった。だが、ある高さで枝の間隔が広がるところで、決まって足が止まってしまうようだった。
「そこ、なんか右足が先に行きすぎてる気がする。もう少し体を左に寄せてから伸ばしてみたら? あと、下はあんまり見ないほうがいいかも」
特別なことは言っていない。ただ、彼女の動きを見ていて、なんとなく引っかかったところを、そのまま口にしただけだ。重心が、ちょっと右に傾きすぎている――見ているうちに、そんな感覚が、ふわっと浮かんできた。
リゼットは言われた通りにやってみた。
ひょい、と。
あっさりと、それまで登れなかった高さを越えていく。木の葉が、さらさらと、揺れた。
「――登れた!!」
枝の上で、リゼットが弾けるような笑顔を見せた。その表情には、これまでの、ずっと登れなかった悔しさを、一気に吹き飛ばすような、確かな喜びが、滲んでいた。
「すごい、アオ! なんでそんなの分かるの?」
「な、なんとなくだよ」
誤魔化しながらも、俺の中では、また一つ確信が積み重なっていた。
人に対しても、やはり同じことが起きる。動物にも、人にも。教えたことが、教えた以上の結果を、確かに、生み出している。ダリオの剣、バロンの警戒、そして、今度はリゼットの木登り。偶然にしては、あまりに、法則めいていた。
「ねえ、もっと高いところまで、登ってみていい?」
枝の上から、リゼットが、無邪気に、こちらを見下ろしてくる。
「あんまり無理するなよ。落ちたら、洒落にならない」
「大丈夫だって。せっかく登れるようになったんだから、もったいないでしょ」
そう言って、リゼットは、さらに高い枝へと、身軽に、体を持ち上げていく。俺は、木の根元で、はらはらしながら、その様子を、見上げ続けていた。
「リゼットお嬢、そろそろお戻りな。お父様がお呼びだよ」
母屋の方から、顔なじみらしい年配の女性が、エプロン姿のまま、ひょいと顔を出した。俺と目が合うと、人懐っこく笑いかけてくる。
「あんたが、噂のアオ坊やかい。村長さんとこに、遊びに来てくれたんだね」
――お嬢。今、確かにそう聞こえた。先ほどの引っかかりが、すとんと腑に落ちた。
「はーい、すぐ行くー!」
枝の上から、気のない返事だけを寄越すと、リゼットはまだ動こうとしない。女性は、慣れた様子で小さく肩をすくめると、笑いながら母屋へと戻っていった。
木の上で無邪気にはしゃぐリゼットを見上げながら、俺はこの力の正体について、もう少し真剣に考える必要がありそうだと思っていた。ただの偶然と片付けるには、あまりにも、確かな手応えがある。
遠くの市場から、賑やかな売り声が、風に乗って、微かに聞こえてきた。木の葉の隙間から差し込む日差しが、地面に、細かな光の模様を描いている。この、なんでもない午後のひとときが、俺には、ひどく、贅沢なものに感じられた。
――そこまで考えて、ふと我に返った。
(あ、卵……)
すっかり忘れていた。俺は慌てて市場へと駆け戻る。預けていた籠は、隣の露店のおばさんが、律儀に日陰へ避けておいてくれていた。
「おや坊主、ずいぶん長い商談だったね」
からかうような声に、俺は曖昧に頭を下げることしかできなかった。卵を売り終える頃には、とっくに昼を過ぎていた。




