004話_番犬への一言
我が家には、バロンという年老いた番犬がいる。
のんびり屋で、正直あまり役に立っているようには見えない。一日中、軒先で丸くなって寝ていることが多かった。灰色の混じった毛並みは、若い頃には、もっと艶やかだったのだろうと、なんとなく想像がつく。時折、耳だけをぴくりと動かし、また眠りに落ちる。その姿は、村の風景の一部のように、すっかり馴染んでいた。
「バロンは、もう歳だからな。あんまり期待するなよ」
ガインは、そう言って、バロンの頭を、軽く撫でていた。それでも、家族の誰も、バロンを厄介者扱いすることはなかった。この家に迎えられてから、もう何年になるのか、正確には、誰も覚えていないらしい。それだけ長く、この家族の一員として、過ごしてきたのだろう。
「バロン、お前さ」
俺はしゃがみ込んで、バロンの垂れた耳のあたりを撫でた。犬特有の、ぬくもりのある体温が、掌に伝わってくる。
ダリオへの一言が、あれからずっと引っかかっていた。あれは本当に、たまたまだったのか。それとも――もし、たまたまではないのだとしたら。相手は、人間でなくても、通用するのだろうか。
試してみるだけなら、減るものじゃない。
「夜、畑の方を気にしてみないか。特に、柵の一番低いところ。あそこから何か来るかもしれない。物音がしたら、思いっきり吠えていいから」
もちろん、バロンが人の言葉をどこまで理解しているかは分からない。ただの独り言に近い。だが、目を見て、はっきりと、言葉にして伝える。それだけは、丁寧に、心がけた。
バロンは眠たげな目でこちらを見ると、ふあ、と小さくあくびをした。まるで、そんなことは知ったことではない、とでも言いたげな態度だった。
(……まあ、そんなもんか)
過度な期待はしていなかった。
だが、その夜。
「――ワンッ! ワンワンッ!!」
いつもは物静かなバロンの、甲高い鳴き声で目が覚めた。真夜中の静寂を切り裂くような、鋭い吠え声だった。母屋から飛び出したガインが、慌ててたいまつを手に外へ出ていく。俺は、暗い部屋の中、布団の中で、息を潜めながら、その気配に、じっと耳を澄ませていた。
翌朝、畑の柵の低い部分に、新しい爪痕が残っていた。だが、被害はそれだけだった。周囲の土には、慌てて逃げ去ったらしい、乱れた足跡が、点々と残されていた。
「珍しいな、バロンがあんなに吠えるなんて」
朝食の席で、メリアが不思議そうに言う。焼きたてのパンから、湯気が立ち上っていた。
「最近、急にしっかりしてきたよなあいつ。歳のわりに」
ガインもうなずきながら、バロンの頭を撫でていた。庭先で、バロンは、心なしか、いつもより誇らしげに、尻尾を振っている。
俺は黙って、パンをかじるふりをしながら、内心では冷や汗をかいていた。
(たった一言、それも寝る前に思いつきで言っただけなのに……)
ダリオの剣、そしてバロン。二つ続くと、さすがにただの偶然とは思えなくなってくる。
俺が誰かに具体的な"コツ"や"やるべきこと"を教えると、その相手は、普段の自分を超えたところまで力を発揮する。
まるで――
(前世で、AIに指示を出していたときと、同じだ)
条件を絞り込み、明確な目的を示し、無駄のない一手を示す。それだけで、想像以上の結果が返ってくる。あの感覚に、驚くほどよく似ていた。曖昧な指示からは、曖昧な結果しか生まれない。だが、状況を的確に切り取り、必要な情報だけを、簡潔に伝えれば――相手の中に眠っていた力が、まるで、せきを切ったように、溢れ出してくる。
だとしたら、これは俺の中にある何かしらの"力"なのかもしれない。
ただの思いつきでは片付けられない。そう思いながらも、今の俺にできることは限られている。まだ五歳の子供に過ぎない自分の立場を、俺は、冷静に、見つめ直していた。
しばらくは、こっそりと。誰にも気づかれないように、少しずつ試していこう。
そう心に決めた朝だった。窓の外では、バロンが、満足げに、朝日を浴びていた。
俺は、朝食の残りのパンの欠片を、そっと、バロンの前に置いた。
「これからも、頼んだぞ」
小声で囁くと、バロンは、大きなあくびで、応えた。頼りにされているのかいないのか、はっきりしないその態度に、俺は、思わず、苦笑してしまった。それでも、これから、この村の暮らしが、少しずつ、変わっていく予感を、俺は、確かに、感じ始めていた。
朝日を浴びるバロンの背中を眺めながら、俺は、これから先、この力と、どう向き合っていくべきか、静かに、考えを巡らせていた。焦る必要はない。まずは、目の前にいる大切な家族や、村の人々のために、そっと、この力を役立てていければ、それでいい。そんなささやかな決意を、俺は、胸の奥に、そっと、しまい込んだ。




