002話_打ち込みのコツ
名前をもらったあの日から、また時間が過ぎた。
気づけば、俺は五歳になっていた。
言葉はすっかり達者になり、走り回れるくらいには体もしっかりしてきた。相変わらず前世の記憶ははっきり残っていたが、それを気取られないよう振る舞うことにも、ずいぶん慣れた。村の暮らしのリズムも、体に染み込みつつある。朝は鶏の声で目を覚まし、昼は畑仕事を手伝うふりをして遊び回り、夜は囲炉裏の火を囲んで、家族の他愛のない話に耳を傾ける。前世の記憶が薄れることはなかったが、それでも、この暮らしそのものには、確かな心地よさがあった。
「そらっ、いくぞアオ!」
家の裏の空き地で、ダリオが木の枝の剣を構えている。季節の変わり目を思わせる、乾いた土の匂いが立ち込める空き地は、俺たちの、格好の稽古場だった。振り下ろされる一撃は子供の遊びにしては思ったより重く、俺は慌てて自分の木剣もどきでそれを受け止めた。ガツンという鈍い衝撃が、両手に響く。
「うわ、重い……」
「当たり前だろ、俺はもう八歳だぞ。お前とは年季が違う」
得意げに胸を張るダリオの太刀筋を、俺はぼんやりと眺めていた。悪くはない。悪くはないのだが、振りの最後になると、なんとなく姿勢が崩れているように見える癖がある。前世で剣術をやっていたわけではないので、詳しいことは分からない。ただ、人に指示を出す仕事をしていたせいか、動きの無駄を見つけることだけは、妙に得意だった。
「なあダリオ、最後の一振りだけどさ」
「あ?」
「剣を振り切る直前に、半歩だけ前に踏み込んでみたら。あと、肩の力を抜いて、腕じゃなくて腰で振る感じで」
思いつきで口にしただけの、ちょっとした指摘のつもりだった。
ダリオは不思議そうな顔をしながらも、言われた通りにもう一度剣を振ってみせる。
――ヒュンッ、と。
さっきまでとは明らかに違う、鋭い音が空を裂いた。振り抜かれた木剣の先が、ぴたりと綺麗な軌道で止まる。土埃が、後を追うように舞い上がった。
「……は?」
ダリオが、自分の手元と俺を交互に見比べた。
「今の、なんだ。急に体が軽くなったっていうか……お、俺、こんなに振れたっけ?」
「た、たまたまじゃないか。調子が良かったんだろ」
俺は慌ててそう言ったが、内心では小さな違和感が引っかかっていた。ちょっとしたコツを教えただけのはずだ。だが、ダリオの一振りは、さっきまでとは明らかに"格"が違って見えた。まるで、これまでの八年分の稽古が、一瞬で、一段階、上に押し上げられたかのような。
(気のせい、だよな)
深く考えるのはやめておく。今はまだ、五歳児にしては変な子供で済んでいるうちに、目立ちすぎないほうがいい。
「もう一回! もう一回付き合え、アオ!」
すっかり興奮した様子のダリオに引っ張られ、俺はまた木剣を構え直す。額に浮いた汗を拭う暇もなく、日が傾き始めるまで、俺たちは、飽きることなく、木剣を打ち合い続けた。
何度か繰り返すうちに、ダリオの太刀筋は、目に見えて、鋭さを増していった。振るたびに、空気を切り裂く音が、ヒュッ、ヒュッと、心地よく響く。
「なんか今日、絶好調だわ、俺!」
汗だくになりながらも、ダリオは上機嫌だった。無邪気にはしゃぐその横顔を見ながら、俺は、複雑な胸中を、押し隠していた。ただの「絶好調」で片付けていいものなのか、俺自身にも、まだ、確信が持てずにいた。
空を仰ぐと、見慣れた赤い羽虫の群れが、悠々と飛び回っていた。季節の変わり目を思わせる乾いた風が、頬を撫でていく。この、ありふれた日常の中に、何か、大きな変化の兆しが、静かに、芽生え始めているのを、俺は、うっすらと、感じ取っていた。
そのとき、母屋の方から、大人たちの声が微かに漏れ聞こえてきた。
「――また畑が荒らされたのか」
「今年で三度目だぞ。冬までに何とかしないと」
声のトーンは、いつもより少し重かった。風向きが変わり、その声が、ふっと、はっきりと耳に届く。
遊びに夢中なダリオは気づいていない様子だったが、俺の耳には、その言葉がやけにはっきりと残った。
この村には、この村なりの悩みがある。畑を荒らす何か、冬までの猶予、大人たちの、抑えきれない不安。子供の耳にも、それくらいのことは、十分に伝わってくる。
「アオ、どうした? ぼーっとして」
ダリオが、木剣を担ぎながら、こちらを覗き込んできた。
「ん、なんでもない」
俺は、慌てて、笑顔を作った。だが、頭の中では、さっき聞こえた大人たちの声が、まだ、こだましていた。
まだ、自分に何ができるとも思っていない。それでも、なんとなく――放っておけない気がしていた。
夕暮れの空を、赤い羽虫が、いくつも横切っていった。稽古で汗ばんだ体に、夕風が、心地よく、吹き付けてくる。俺たちは、しばらくの間、無言のまま、その景色を、眺め続けていた。




