001話_目覚めと名前
最初に戻ってきたのは、感覚だった。
ぼんやりとした眩しさ。頬に触れる、柔らかくて少し冷たい何か。耳の奥で、くぐもった音の塊が響いている。指先も、腕も、思うように動かせない。まるで、分厚い布に、全身をくるまれているかのようだった。
何も、はっきりとしない。自分がどこにいるのか、何が起きたのか。考えようとしても、思考がうまく像を結ばなかった。頭の中に薄い霧がかかっているようだった。
――そういえば、俺は。
オフィスの明かり。上司の怒声。キーボードを叩き続けた指先。画面の文字がぼやけて、視界が白く塗りつぶされて――そこから先の記憶が、ない。
まさか。
体を動かそうとしても、指一本、思うように力が入らない。声を出そうとしても、意味のある言葉にはならない。ただ、甲高い泣き声のようなものが、自分の喉から漏れているのが分かるだけだった。
(俺は、死んだのか)
考えれば考えるほど、それ以外にしっくりくる説明が見当たらなかった。このどうにもならない非力さ。妙に近い誰かの体温。日本語のはずがないのに、なぜか自然と意味を汲み取れてしまう声。
――俺はどうやら赤ん坊になっているらしい。
パワハラ上司に怒鳴られ続けた日々。誰かに命令され続けることに、心底うんざりしていた。あの続きがないというだけで、ひとまず悪くない話だった。
◇◇◇
気づけば、俺は三歳になっていた。
赤ん坊だった記憶は、断片的にしか残っていない。目の焦点が合うようになったこと、寝返りが打てて嬉しかったこと、立てるようになって家族が拍手してくれたこと――そのあたりから記憶は急に鮮明になる。どうやら、この体にも「慣れる」までにそれなりの時間が要ったらしい。
記憶がはっきりしてくるにつれて実感したのは、ここがどうやら、前世の日本とはまったく別の世界らしい、ということだった。薪がはぜる匂い、井戸水の冷たさ、土間を歩く裸足の感触――そのどれもが、前世では感じたことのないものだった。コンクリートと蛍光灯に囲まれていた前世の暮らしとは、何もかもが違っていた。
「アオ、こっちだ」
薪割りをしていた父――ガインが、俺を手招きする。太い腕、ごつごつした手つき。それでいて、俺を見る目はいつも柔らかい。斧を振り下ろすたび、丸太が心地よい音を立てて、二つに割れていく。その動きを、俺は毎日、飽きずに眺めていた。
――アオ、か。
呼ばれるたびに、頭の片隅が小さくざわつく。前世の名前――佐伯碧の「碧」と、読みがまったく同じだ。偶然にしては、できすぎている気がした。
気になって、俺は父の隣にちょこんと座ると、たどたどしい口調で聞いてみた。
「とうさん、なんでアオってなまえにしたの?」
「おお、気になるか」
ガインは薪を割る手を止め、少し照れくさそうに笑った。
「お前の名前な、お母さんと二人で相当悩んで決めたんだぞ」
「そうそう。生まれてすぐの顔が、なんだかもう分かってるみたいな顔してたのよねえ」
母のメリアが、洗濯物を干しながら笑う。物干し竿にかけられた布が、風にはためく音が、のどかに響いていた。俺は内心で冷や汗をかいた。分かってる、は間違っていない。ただし理由は、母が思っているようなものではない。
「兄ちゃんが決めたんだぜ、その名前」
得意げに割って入ってきたのは、三つ上の兄――ダリオだ。木の枝を剣に見立てて振り回している。
「ダリオにいちゃんが?」
「森の向こうの街で聞いた話でな、『アオ』ってのは、遠い国の言葉で"よく考える者"って意味らしいんだ。お前、赤ん坊のくせに妙にジッと考え込む顔ばっかりしてたから、ぴったりだろ」
的を射すぎていて、今度は表情を保つのに苦労した。
この家族――というより、この村自体が、俺の知る「日本」とはまるで違う場所だということは、もう疑いようがなかった。木造の家、薪と土の匂い、狩りの道具が壁に立てかけられた土間。窓の外には、見たこともない色の葉をつけた森が広がっている。空の色すら、記憶の中の景色より、少しだけ深い青をしていた。
「ねえダリオにいちゃん、もりって何がいるの?」
俺が聞くと、ダリオは得意げに胸を張った。
「ウルフとか、でかい猪とか。たまに、もっとヤバいのもいるらしいけどな。だから村の大人は、狩りに出るとき必ず何人かで組む。一人で森に入るのは禁止だ」
「あぶないの?」
「危ないさ。でも、腕のいい猟師は毎年何人か出てくるらしいぜ。十五になったら、俺も『成人の儀』受けて、自分の力がどんなもんか分かるようになるんだ。楽しみで仕方ねえよ」
成人の儀。十五歳。そこで何かが「分かる」らしい。詳しい仕組みまでは、まだダリオも分かっていないようだった。
この世界には、この世界なりのルールがある。焦って全部を知ろうとするより、こうして少しずつ、家族の会話から拾っていく方が性に合っている。前世の癖が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「アオ、ボーっとしてないで手伝えー」
メリアに呼ばれ、俺は洗濯物の籠を――三歳児の非力な腕で――よろよろと運ぶ。傍から見れば、ただの手伝いたがりな子供だ。
それでいい。目立たず、静かに。この家族のそばで、ゆっくりとこの世界に慣れていく。それが、俺の願った第二の人生の、ささやかな第一歩のはずだった。
――このときの俺は、まだ知らない。
自分の言葉ひとつが、周りの誰かを、とんでもないところまで押し上げてしまうことになるとは。




