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采配のスローライフ  作者: PM
00_序章
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000話_働きすぎた男の最後の夜

序章 働きすぎた男の、最後の夜


 午前二時。オフィスの明かりは、俺の席だけが灯っていた。


 等間隔に並んだデスクの群れは、蛍光灯を落とされ、青白い非常灯の光の中に、静かに沈んでいる。空調はとうに止まり、こもった熱気と、冷めきったコーヒーの匂いだけが、部屋に淀んでいた。時折、どこか下の階でエレベーターが動く音が、遠く、鈍く響く。それ以外は、キーボードを叩く、俺の指の音だけが、この階を支配していた。


 窓の外に目をやれば、隣のビルの、まばらな灯りが見える。あそこにも、同じように、今夜、帰れずにいる誰かが、いるのかもしれない。そんなことを、ぼんやりと思いながら、俺は、また画面へと視線を戻した。


「佐伯、これ明日の朝イチで直しといて」


 帰り際、そう言い残していった上司の声が、まだ耳に残っている。渡された修正指示書は、三日前に俺が投げたレビュー依頼への回答としては、あまりにも遅すぎた。しかも中身は、ほとんど言いがかりに近い。付箋には、赤いペンで殴り書きされた「分かりにくい」の四文字だけが、投げつけるように貼られていた。具体的に、どこが、どう分かりにくいのか。それを尋ねようとするたび、話は逸れ、最後には、決まって、俺の説明能力の問題にすり替えられた。


 俺――佐伯碧、二十八歳。IT企業でシステムエンジニアをしている。肩書きの上ではプロジェクトリーダーということになっているが、実態はただの便利屋だった。


 得意なことはひとつだけある。人に――正確には、AIに――的確な指示を出すことだ。何を、どういう手順で、どこまでの精度で仕上げてほしいか。それを言葉に落とし込む作業を、俺はずっとやってきた。曖昧な指示からは曖昧な成果しか生まれない。逆に、状況を整理し、意図を明確にし、判断基準まで示した指示を渡せば、驚くほどの成果が返ってくる。かつて、ある大きな案件で、誰もが音を上げかけていた作業を、丁寧に分解し、手順ごとに指示を組み立て直しただけで、驚くほど早く、しかも高い精度で、片付いたことがあった。あの時の、静かな達成感を、俺はまだ、覚えている。


 それを何百回、何千回と繰り返してきた自負がある。


 思えば、この仕事を選んだのも、その感覚が、好きだったからだった。学生の頃、独学で組んだ、簡単な自動化のプログラムが、思い通りに動いた時の、あの静かな高揚感。誰かに命令されて動くのではなく、自分の頭で組み立てた道筋通りに、物事が、確かに前へ進んでいく。あの感覚を、もっと大きな規模で、味わい続けたいと思っていた。


 だが、実際に飛び込んだ現場は、想像していたものとは、随分と違っていた。技術的な難しさよりも、人と人との、噛み合わない歯車の方が、遥かに、俺を消耗させた。


 なのに、それを人間相手にはうまく使えなかった。


「お前の説明、いつも回りくどいんだよ」

「またお前のせいで手戻りが出た」

「代わりはいくらでもいるんだぞ」


 上司の口癖はいつも同じだった。理由を説明しようとすると、さらに大きな声で遮られる。反論すれば「口答えするな」の一言で片づけられ、それがそのまま評価に響く。だから俺は、いつからか黙って引き受けるようになっていた。会議室で、廊下で、時にはチャットの文字だけでも、その圧は、変わらず、重かった。


 誰かに命令されるのは、こんなにも苦しい。


 そう思いながらも、キーボードを叩く手は止まらなかった。止めてしまえば、明日からの居場所がなくなる気がしたからだ。帰りを待つ家族がいるわけでもない。ただ、この仕事を失えば、自分には、本当に、何も残らない気がしていた。椅子に深く沈み込んだ体は、もう、いつからか疲労を通り越し、麻痺したような感覚しか、返してこなくなっていた。


 上司はとっくに帰っている。文句を言う相手すらいない、静まり返ったオフィスで、俺はただ黙々と、手を動かし続けた。壁の時計の秒針だけが、規則正しく、時を刻んでいる。フロアの隅、給湯室の冷蔵庫が、低く唸る音が、やけに大きく聞こえた。


 時計の針は三時を回っていた。修正箇所は、残り三つ。集中していたせいか、目の奥の重さも、肩の痛みも、いつの間にか意識の外に追いやっていた。指先だけが、機械的に、キーを叩き続けている。画面の光だけが、やけに白く、眩しく感じられた。


 ――あと少しで、終わる。


 特別な感慨のない、いつも通りの一言だった。今日という日を生き延びるための、ただの区切り。


 その瞬間、視界が真っ白に塗りつぶされた。


 痛みを感じる暇も、意味づけをする暇もなかった。何かに気づくよりも早く、すべてが唐突に途切れる。


 キーボードの音が消える。指先の感覚も、椅子の背もたれの感触も、モニターの光も、まとめて、音もなく消えていった。


 最後に感じたのは、どこか遠くで揺れる、温かい光のようなものだった。


 ――赤ん坊の泣き声が、聞こえた気がした。


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