014話_裏からの采配
夜の闇が下りる頃、村は静かな緊張に包まれていた。
いつもなら、収穫祭を控えて、賑やかな話し声が響いているはずの夜。だが今は、誰もが息を潜め、闇の中に、じっと目を凝らしていた。松明の灯りだけが、点々と、柵沿いに揺れている。
柵の東側には、あえて手薄な配置。猟師たちの主力は、西側の物陰に息を潜めている。ガインの号令のもと、村の男衆はそれぞれの持ち場についていた。
「アオ! ダリオ! こっちに来い、早く!」
ガインの声だった。血相を変えて、こちらに駆けてくる。
本当なら、俺たちは、とっくに女子供と一緒に、オーレンの家へ避難しているはずだった。だが、避難する前に、どうしても柵の様子が気になって、ダリオを連れて確かめに来てしまっていたのだ。東側が本当に手薄に見えるか、西側に隠れた猟師たちの姿が漏れていないか――昨夜伝えた作戦通りになっているか、自分の目で確かめておきたかった。
まさか、これほど早くゴブリンの群れが迫ってくるとは、思っていなかった。
駆け寄ってきたガインが、俺とダリオの腕を、それぞれ強く掴んだ。そのまま、柵のそばの大きな岩の陰へと、押し込むように隠す。
「絶対に、ここを動くな。何があっても、顔を出すんじゃないぞ」
いつになく、厳しい声だった。有無を言わせない、父としての強い意志が滲んでいた。
「う、うん……」
「わ、分かってるって」
俺とダリオは、頷くことしかできなかった。膝が、勝手に震えている。頭の中では、昨夜伝えた作戦の手順を、何度も繰り返した。
しばらくして、森の奥から、ざわめきが近づいてきた。
「来た……!」
月明かりに照らされ、緑色の影がいくつも姿を現す。数は思っていたより多い。だが、想定の範囲内だった。ぎらついた目、握られた粗末な武器。それらが、じりじりと、こちらに、迫ってくる。
「絶対に、動くなよ」
ガインは念を押すように、もう一度、俺たちを見た。それから、得物を握り直し、自らの持ち場――柵の正面へと駆けていく。あとは、フェンと、村の大人たちを、信じるしかない。
群れは案の定、手薄に見える東側の柵へと殺到し始めた。
「今だ、挟み撃ちにしろ!」
ガインの怒声が響き渡る。柵の正面ではガインたち猟師が食い止め、フェンが側面から回り込む。西に潜んでいた猟師たちも、一斉に動き出した。
岩陰から覗き見る戦況は、俺が頭の中で描いていた通りに進んでいた。混乱した群れは、統率を乱していく。誘い込まれたことに気づいたときには、すでに退路を断たれつつあった。
(このまま、いける……)
安堵しかけた、その時だった。
物陰に潜んでいたはずの、一際大きなゴブリン――群れを率いていた、あの指揮官が、混戦の隙をついて、ガインの死角に回り込んでいた。フェンはまだ遠く、他の猟師たちも、目の前の敵で手一杯だ。誰も、気づいていない。
このままでは、間に合わない。
考えるより先に、体が動いていた。
「父さん、右に跳んで、しゃがんで! フェン、まっすぐ走れ、指揮官の左は死角だ!」
気づけば、隠れていたはずの岩陰から飛び出し、声を張り上げていた。喉が、擦り切れるように痛んだ。
ガインが弾かれたように右へ跳び、体を沈める。頭上を、指揮官の棍棒が、空を切って通り過ぎていった。同時に、フェンが弾丸のように地を蹴り、指揮官の無防備な横腹へと、鋭く飛びかかる。
――決まった。
指揮官が、大きく体勢を崩し、そのまま地に沈んだ。
辺りが、一瞬、静まり返る。
「……今の、声は」
近くにいた猟師の一人が、呆然と、こちらを振り返った。ガインも、フェンでさえも、驚いたように、こちらを見つめている。
「な……なんだよ、今の」
すぐ隣で、ダリオが、掠れた声を漏らした。岩陰から飛び出した俺を、目を丸くして見つめている。俺は、隠れきれなかったことを、今更ながらに悟った。だが、後悔している暇はない。
「そ、それより、まだ終わってない! 気を抜くな!」
誤魔化すように叫ぶと、俺は慌てて、また岩陰へと、身を隠した。心臓が、痛いくらいに、早鐘を打っていた。
時間にしてどれくらいだっただろう。永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
気づけば、群れの半数以上が撤退し、残りは猟師たちによって制圧されつつあった。
「――終わった、のか」
膝から力が抜けそうになる。緊張の糸が、ようやく緩んでいくのが分かった。辺りには、荒い息遣いだけが、静かに、響いていた。
村の被害は、最小限に抑えられた。怪我人こそ何人か出たものの、命を落とした者は一人もいない。
柵の傍らで、俺はへたり込むように座り込んだ。土の感触が、冷たく、掌に伝わってくる。
隣に駆け寄ってきたフェンが、心配そうに顔を寄せてくる。その体には、幾つかの、細かな傷が刻まれていた。
「……ありがとうな、フェン。お前がいなかったら、もっと大変なことになってた」
撫でる手が、まだ小さく震えていた。フェンの体温だけが、その震えを、少しずつ、鎮めてくれるようだった。
だが同時に、胸の奥には、確かな手応えもあった。
自分の力で、誰かを守ることができた。
その事実が、これまでのどんな出来事よりも、深く俺の中に刻み込まれていった。夜空を見上げると、いつの間にか、雲間から、月が、静かに、顔を覗かせていた。
「アオ、お前……」
隣に座り込んだダリオが、何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。その目には、これまでにない驚きと、確かな尊敬の色が浮かんでいた。
「あとで、ちゃんと話すから……今は、ちょっとだけ、休ませて」
俺の言葉に、ダリオは黙って頷いた。村中に安堵のざわめきが広がっていくのを遠くに聞きながら、俺は静かに目を閉じた。
村長の家に避難していた女性や子供たちも、少しずつ外へと出てきていた。互いの無事を確かめ合う声、抱き合う家族の姿。その一つ一つが、この村が確かに守り抜かれたことを物語っていた。
俺は、へたり込んだまま、しばらくその光景をぼんやりと眺め続けていた。まだ実感が追いついていなかった。それでも胸の奥には、これまでにない確かな充実感が、静かに広がり続けていた。




