010話_力を引き出す
フェンが元気に走り回るようになったある日、俺は思い切って、一つの試みをすることにした。
誰もいない、静かな昼下がりだった。ダリオは村の子供たちと遊びに出かけ、メリアは市場、ガインは狩りに出ている。庭には、俺とフェン、二人きりだった。
「フェン、こっち来い」
庭の端で呼びかけると、フェンはすぐに駆け寄ってくる。もう体もすっかりしっかりして、最初に見つけたときの弱々しさが嘘のようだった。灰色の毛並みは、今では、健康的な艶を取り戻している。
俺はしゃがみ込み、フェンの目線に合わせて話しかけた。
「今から、あの木の棒を、庭の反対側まで運んでほしい」
地面に落ちていた木の枝を指す。フェンは首を傾げながらも、口にくわえて歩き出した。ただの言い付けだ。特別なことは何もない。
「――待った」
俺はもう一度呼び止め、今度は具体的に言葉を重ねた。これまで、幾度となく、フェンの動きを、じっと観察してきた。骨の付き方、筋肉のつき方、走るときの癖。それらが、今、頭の中で、一つの絵として、繋がっていく。
「くわえる位置、なんか、ちょっとだけ後ろの方がいい気がする」
自分でも、なぜこんな言葉が口から出てくるのか分からなかった。ただ、フェンの骨格や筋肉のつき方、これまでの動きの癖を見ていると、自然と「こうすればもっと上手くいく」という感覚が湧いてくる。まるで、あらかじめ、答えが、頭の中に用意されているかのようだった。
フェンは棒をくわえ直し、言われた通りに姿勢を整えた。四肢を、じりじりと、地面に沈み込ませていく。その様子は、これまで見たことのない鋭い集中力を、感じさせた。
そして、駆け出した。
――ドッ。
地面を蹴る音が、それまでとは明らかに違った。地響きにも似た、重く、確かな音だった。
風を切る速さで庭を横切り、あっという間に反対側までたどり着く。棒を落とす頃には、土煙が舞い上がっていた。木の柵に、思わず、亀裂が入るほどの勢いだった。
「……え」
ダリオもリゼットも、庭に来ていなかったのが幸いだった。この場に自分しかいなかったことに、俺は心底安堵した。もし、誰かに見られていたら、どう説明すればいいのか、見当もつかなかった。
フェンは得意げに尻尾を振りながら、こちらに駆け戻ってくる。まるで自分の力に自分自身が驚いているようにも見えた。荒い息を吐きながらも、その瞳には、確かな高揚感が、宿っていた。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
(――これは、もう間違いない)
偶然でも、気のせいでもない。
的確な指示を与えたとき、相手はその子――あるいはその存在――が本来持っている力を、大きく超えたところまで引き出される。
思い返せば、すべてに共通点があった。曖昧な言葉で終わらせたときは、大した変化はない。だが、具体的に、状況を踏まえた上で、明確な目的と方法を示したときだけ、決まって規格外の結果が返ってくる。ダリオの剣、バロンの番犬っぷり、リゼットの木登り、ラウの見回り。そして、今、目の前にいるフェン。
これは、前世で培った「指示を出す技術」そのものだ。異世界に来て、なくなったどころか――むしろ、剥き出しの力として発現している。曖昧な指示からは曖昧な結果しか生まれない。だが、丁寧に条件を切り分け、具体的な行動へと落とし込んだ指示は、常に、想像を超えた成果を、連れてくる。
名前をつけるとしたら、なんと呼べばいいだろう。
スキルなのか、才能なのか。それとも、もっと別の何かか。
答えはまだ出ない。だが、これが自分の中に確かに存在する"力"だということだけは、もう疑いようがなかった。
「フェン」
俺は駆け寄ってきたフェンの頭を、そっと撫でた。土埃で汚れた毛並みを、丁寧に、払ってやる。
「お前のおかげで、はっきりした。……ありがとうな」
フェンは嬉しそうに、俺の手に鼻先を押し付けてきた。まるで、俺の言葉の意味を、確かに、理解しているかのように。
この日を境に、俺の中で何かが静かに変わり始めていた。
隠すべきか、使うべきか。まだ答えは出ていない。それでも――もう、見て見ぬふりはできそうになかった。夕暮れの光が、傾き始めた庭を、静かに、オレンジ色に染めていく。フェンと二人、その光の中に、しばらく、佇み続けていた。
この力を、これから、どう使っていくべきなのか。誰かを助けるために使うのか、それとも、誰にも知られぬまま、封じ込めておくべきなのか。答えの出ない問いを抱えながらも、俺は、確かな手応えとともに、静かな高揚感を、覚え始めていた。フェンの温かい体を撫でながら、俺は、これから訪れるであろう日々に、思いを馳せていた。




