009話_フェン
子狼を家に連れ帰ってからの数日は、看病に明け暮れた。
メリアが薬草の扱いに詳しく、傷の手当てを手伝ってくれた。すり潰した薬草を、丁寧に、傷口に塗り込んでいくその手つきには、迷いがなかった。
「若い頃、少しだけ、薬師見習いをしていたのよ」
メリアは、そう言って、少し懐かしそうに微笑んだ。俺は、母のまだ知らなかった一面を垣間見た気がして、意外な驚きを覚えた。
ガインは終始難しい顔をしていたが、それでも夜な夜な様子を見に来ては、小さくため息をついていた。口では、面倒だと言いながらも、その眼差しは、決して冷たいものではなかった。
三日目の朝、子狼はようやく目を開けた。
濁っていた瞳に、少しずつ力が戻ってくる。俺の差し出した水を、恐る恐る舐め始めたときは、思わず声を上げそうになった。ぺろり、ぺろりと、小さな舌が、水面を揺らす。そのささやかな動きの一つ一つに、俺は、心の底から、安堵を覚えていた。
「よかった……」
安堵で、体の力が抜ける。この三日間、どこかで、覚悟していたのかもしれない。ある朝、目を覚ましたら、もう、動かなくなっているのではないかと。
「名前、決めたのか」
様子を見に来たダリオが、興味津々に子狼を覗き込んだ。
「まだだけど……」
俺はしばらく子狼を見つめた。灰色の毛並み、鋭い目つき。それでいて、こちらを見る目には、どこか人懐っこさがある。窓から差し込む光を受けて、その毛並みが、微かに、銀色に輝いて見えた。
前世で聞いたことのある、遠い異国の言葉が頭をよぎった。
「フェン、にしようかな」
「フェン? 変な名前」
「そうか?」
「でも、まあ、悪くないんじゃね」
ダリオはそう言うと、恐る恐る手を伸ばし、フェンの頭を撫でた。フェンは一瞬びくりと体を震わせたが、やがて大人しく撫でられるままになっていた。
「懐いてるじゃねえか」
「……そうみたいだな」
傷が癒えていくにつれ、フェンは少しずつ元気を取り戻していった。最初は、部屋の隅で、じっと縮こまっていた体が、日を追うごとに、少しずつ、伸びやかになっていく。食欲も戻り、メリアが用意してくれる干し肉を、あっという間に、平らげるようになった。
村の子供たちも、噂を聞きつけて、代わる代わる、フェンを見にやってきた。
「魔物、飼うなんて、大丈夫なのか?」
不安げに尋ねる子もいれば、
「触ってもいい?」
と、目を輝かせる子もいた。フェンは、最初こそ、見知らぬ人間たちに、警戒した様子を見せていたが、次第に、慣れていったのか、大人しく、その視線を受け止めるようになっていった。
狭い庭を跳ね回るようになったのは、それから半月ほど経った頃だ。
「フェン、待て」
試しに声をかけてみると、驚いたことに、フェンはぴたりと動きを止めた。俺自身、半信半疑での呼びかけだった。
「お座り」
ぎこちなくはあったが、しっかりと腰を落とす。丸い瞳が、じっと、俺を見上げていた。
(言葉、通じてるのか……?)
普通の獣以上に賢いのは間違いない。だが、それだけではない何かがある気がした。まるで、俺の意図そのものを、汲み取ろうとしているかのような確かな理解の色が、そこにはあった。
俺はふと、これまでのことを思い出す。ダリオの剣、バロンの番犬っぷり、リゼットの木登り、ラウの見回り。どれも、ちょっとした一言をきっかけに、相手が本来以上の力を発揮していた。
もし、この力がフェンにも通じるなら――。
その考えが、次の話の始まりになるとは、このときの俺は、まだ気づいていなかった。
ただ、目の前で楽しげに尻尾を振るフェンを見ながら、俺は静かに、確信めいたものを感じ始めていた。
「アオ、遊ぼうぜ!」
ダリオの声に、フェンが、真っ先に反応して、駆け出していく。その様子を見て、俺も、思わず、後を追いかけた。
夕暮れの庭に、フェンの弾んだ足音と、俺たちの笑い声が、軽やかに、いつまでも響いていた。このなんでもない、穏やかな時間こそが、俺にとって、何より、かけがえのないものに感じられた。
息を切らして立ち止まると、フェンが、得意げに、尻尾を振りながら、駆け戻ってきた。額の汗を拭いながら、俺は、この灰色の相棒との、これから先の日々に、確かな期待を抱いていた。
まだ、この力の正体も、フェンとの絆の意味も、はっきりとは分からない。それでも、この庭で過ごす時間が、俺にとって、何よりも大切なものになっていくことだけは、疑いようがなかった。
「フェン、明日も、また遊ぼうな」
俺の言葉に、フェンは、大きく一声吠えて、応えてくれた。夜の闇が下りる中、俺たちは、しばらくの間、寄り添うように、並んで座り続けていた。このなんでもない日常こそが、これから先の、大きな冒険の、確かな土台になっていくのだと、このときの俺は、まだ、知る由もなかった。




