第29話 忘れないでください
これからも、ユリウスの隣にいる選択をし続けるであろうイザベラには気がかりなことが一つだけあった。
それは恋の研究を始めた当初からイザベラに好意を向けてくれ、快く研究に協力してくれたジョシュアの存在だった。
散々利用して、振り回したのに、結局イザベラとユリウスは、自分たちで恋とは何なのかを証明してしまった。
その上、ジョシュアにはイザベラが惚れ薬を飲んだ際の対象者にしていたことをまだ話せていない。
いつか全てを話さなければいけないと覚悟はしているのに、こういう時に限ってジョシュアに全然会えないのだ。
用事もないのにわざわざ騎士団本部の周りをウロウロしたり、行方不明のユリウスを探しに行く際も絶対に通りかかるようにしているのに何故一度も会えないのだ。
そんなこんなですっかりジョシュアを探すのに疲れ果ててしまったイザベラは、中庭の噴水近くのベンチで一人休息を取っていた。
今日は魔術省の上位魔術師たちの会合があるらしく、ユリウスもそれに参加している。
本人は絶対に行きたくないって朝から壮絶な駄々をこねていた。
だが、前回も前々回も参加していなかったため、怒り狂ったサミュエルが研究室に突撃してきて、暴れるユリウスを連行していった。
今頃、仏頂面で不機嫌を周囲に撒き散らしているであろう。
戻ってくるのは丁度お昼頃なので、本日のお昼はユリウスの好きなものを用意している。
機嫌取り対策に抜かりのないイザベラは少しだけ愉悦感に浸っていた。
春もそろそろ終わりを告げようとしている初夏の日差しがイザベラを照りつける。
ぼんやりと渡り廊下の人の流れを眺めていると、見覚えのある近衛騎士の制服が目に入った。
「......ジョシュア君!?」
ここ数日探し回っても見つからなかったジョシュアの姿に目を見開かせたイザベラは、ベンチから立ち上がり、急いで渡り廊下へと走った。
「おーい、ジョシュア君!」
呼び止めようと後ろから声をかけると、ジョシュアが立ち止まり、左右に首を揺らし辺りを見渡し、そして最後に後ろを振り向く。
「イザベラさん」
イザベラの姿を確認するなり、ジョシュアが目を細める。
照りつける太陽に負けないぐらい輝かしい笑顔だった。
「...久しぶり、ジョシュア君」
「はい、お久しぶりです!!」
ジョシュアに対し後ろめたさがあるイザベラは、その眩しさに目を背けたくなる。
罪悪感から視線を落とした先で、ジョシュアの制服の手首部分に付いた装飾ボタンが取れかかっているのを見つける。
「...取れかかってる...」
「えっ?」
「ごめん、ジョシュア君!!ちょっと待ってもらってもいい!?」
細かいところが気になってしまう性分のイザベラは、こんな場合ではないと分かっていても、取れかかったボタンを放っておくことができなかった。
「えっ、あっ、はい!!」
「すぐ、戻ってくるからーーー!!」
状況がよく分かっていないジョシュアをその場に残し、イザベラは全速力で研究室へと戻る。
研究室の自分の机の引き出しから、裁縫道具を取り出すと、それを胸に抱え、ジョシュアが待つ渡り廊下へと走った。
息を切らして戻ると、ジョシュアが先ほどの場所から一歩も動かず待っていたので、イザベラは中庭のベンチまで一緒についてきてもらった。
そこで初めて制服のボタンが取れかかっているから直させてほしいとお願いしたら、ジョシュアは驚いたように目を見開かせた。
やはり突然過ぎて引かれてしまったかと不安になるも、ジョシュアはすぐに頬を緩ませ、快諾してくれた。
ジョシュアから制服を受け取り、ボタンの修復作業を始めた。
その間、ジョシュアはじっとイザベラの手元を見つめていた。
出来ればあまり凝視しないで欲しかったが、ジョシュアの表情があまりにも嬉しそうだったため、居心地の悪さを感じながらもイザベラは修復作業を進めることにした。
・
「ありがとうございます」
制服を着直したジョシュアは、イザベラが縫い直したボタンへそっと触れ、笑顔で礼を言った。
イザベラは慌てて首を横に振る。
「いや、わたしが気になっただけだから!!あと、簡単に縫い直しただけだから、後でちゃんとした専門のところに修復依頼したほうがいいよ」
あくまでイザベラが施したのは応急処置だと説明すると、ジョシュアの琥珀色の瞳が微かに揺れた。
「...イザベラさんは変わらないですね」
「えっ...」
小さな声で何か呟いたようだったが、聞き取れなかった。
静かに微笑んでいるジョシュアの表情がどこか悲しげだった。
そこでようやく、こんなことしている場合ではないと気付いたイザベラはジョシュアへと改めて向き直る。
「あのね、ジョシュア君...。聞いてほしいことがあるの」
そして、イザベラはゆっくりとジョシュアに今までの経緯を打ち明け始めた。
数日前にユリウスが惚れ薬を完成させたこと。
イザベラが検証のため惚れ薬を飲んだ際に誤ってジョシュアを対象にしてしまったこと。
そして、ジョシュアには内緒で検証を進めてしまったこと。
初めは驚いた表情を浮かべていたジョシュアも、話が進むにつれ、次第に表情を曇らせていく。
そんな表情に胸が痛みながらも、イザベラがジョシュアから視線を逸らすことはなかった。
「ーーというわけなの」
全て説明し終わると、二人の間に沈黙が流れる。
途中から、ジョシュアが顔を伏せてしまったため、いったいどんな表情をしているのかわからなかった。
怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか、呆れているだろうか、それとも軽蔑しているだろうか。
少なくとも、イザベラたちの身勝手な行動はジョシュアの意志を尊重していなかったことに変わりはない。
だから、イザベラはジョシュアに何を言われても、受け入れるつもりだった。
「...折角、イザベラさんに好意を向けて頂けたのに、勿体ないことしてしまいましたね」
しかし、ジョシュアは眉尻を下げ、弱々しく笑っていた。
「...どうして?」
予想外の反応に、イザベラは曖昧な問いしか出てこなかった。
「...イザベラさん、ずっと申し訳なさそうな顔されてるじゃないですか」
なるべくジョシュアに気を遣わせないように感情を乗せずに淡々と話していたつもりだったが、無意識に顔に出てしまっていたらしい。
「ご、ごめんなさい...」
謝罪の言葉を口にすると、ジョシュアが悲しげに目を細める。
優しいジョシュアが傷つく姿を見ていられず、イザベラは逃げるように視線を逸らし、拳を強く握りしめた。
やはり、最初から全て打ち明けるべきだった。
今更後悔の念が押し寄せてくるも、もう何もかも遅すぎて、イザベラは顔を上げることが出来なかった。
「......イザベラさん、次の休みって空いていますか?」
「えっ?」
「お詫び...と言ったら聞こえが悪いのですが、僕ともう一度デートしてください」
ジョシュアからの突然の申し出に、イザベラの反応が一拍遅れる。
「デートって...」
「はい。研究という名目なしで、純粋に僕とデートしてください」
何故そんなことを望むのかはわからなかった。
だが、これ以上ジョシュアの気持ちを踏みにじるようなことだけはしたくなかったイザベラは、それを拒むことは出来なかった。
「わかった...」
「...ありがとうございます」
提案を受け入れただけなのに感謝されるのはどこか違う気がした。
けれど、これ以上ジョシュアの気持ちから目を逸らしたくなかったイザベラは、黙って頷いた。
「それじゃあ、次の休みに、いつもの時間、いつもの場所で、お待ちしております」
立ち上がり一礼すると、ジョシュアは身を翻し、イザベラを置いて去っていく。
背中が見えなくなっても、イザベラはしばらくその場から動けなかった。
これで終わったわけではない。
次の休み、ジョシュアともう一度向き合わなければならない。
自分がしでかしたことの重さを改めて胸に刻みながら、イザベラは静かに俯いた。
・
ジョシュアとの約束の日、イザベラは気持ちが落ち着かないため、少し早めに待ち合わせ場所へと向かった。
もちろん今日のことはユリウスには話してはいない。
ジョシュア関連になるとユリウスは冷静さを失い、いつも以上に面倒になるのを避けたいというのもある。
だが、何も話さずに来てしまったことが、どこか後ろめたかった。
このままユリウスへの後ろめたさを抱えたままジョシュアに向き合うのは失礼だと、イザベラはユリウスを頭から追い出すように、小さく頭を振った。
待ち合わせ場所の中央広場へ着くと、相変わらず人で溢れていた。
人混みの向こうから近付いてくる人物に目を向けると、それがジョシュアだとすぐに分かった。
まだ待ち合わせ時間には随分早いのに、イザベラはジョシュアがいることに驚いてしまう。
「こんにちは、イザベラさん」
「...こんにちは、ジョシュア君」
しかし、眩いばかりの笑顔を向けられ、もう色々考えるのはやめようとイザベラも微笑み返した。
「少し早いですが、参りましょうか」
今までのデート同様、ジョシュアがおもむろにイザベラに手を差し伸べる。
これまでなら戸惑いながらもその手を取っていたが、これはもう研究のためのデートではないのだから弁えないといけない。
イザベラはその手を取らず、ゆっくりと首を振った。
すると、ジョシュアの動きが止まり、一瞬だけ琥珀色の瞳が揺れる。
手をゆっくりと引くと、ジョシュアが寂しそうに笑った。
「行こうか」
「...はい」
こうして、ジョシュアとのデートは少しだけ落ち着いた雰囲気から始まった。
デート中のジョシュアはいつもと変わらず、イザベラに気を配り、優しくエスコートしてくれた。
明るく振る舞っているが、時折見せる悲しげに目を伏せる姿にイザベラの胸が少しだけ締め付けられるも、見ない振りを心がけた。
日も傾き始め、デートも終盤に差し掛かってきた頃、ようやく緊張感が薄れ、ジョシュアの表情も少しだけ晴れやかに戻った気がする。
この調子だと、ジョシュアも早々にイザベラのことを吹っ切れることができるだろう。
きっと、ジョシュアならもう大丈夫だと、イザベラは勝手に思い込んでいた。
今なら、きちんと伝えられる気がした。
「ジョシュア君、あのね」
だから、これまでのお礼を含めて、ジョシュアに自分の気持ちを伝えようとした。
「もう少しで星見の祭りがありますよね!イザベラさんは行ったこと、ありますか?」
しかし、イザベラの話を遮るように、ジョシュアが話を被せてきた。
ジョシュアらしからぬ言動に違和感を覚えるも、声が小さくて聞こえなかったのかなとイザベラは再び声を上げた。
けれども、その声もジョシュアによってかき消されてしまった。
まるでこれ以上、話を聞きたくないような行動に、イザベラはその場で立ち止まった。
「...ジョシュア君」
低い声で名前を呼ぶと、ジョシュアの足も止まった。
姿勢のよい大きな背中が、一瞬だけ落胆したように縮こまるも、すぐに元に戻る。
「...どうしました?イザベラさん」
笑顔で振り返ってくるも、その声はどこか震えているように聞こえた。
その声に、このまま話を進めていいのだろうかと躊躇ってしまうも、イザベラは一歩前へと足を踏み込んだ。
「...今まで、協力してくれてありがとう」
静かに口を開いたイザベラの声は少しだけ震えていたので、唇をきつく引き締める。
気持ちを落ち着かせるために息を吐き、再度口を開く。
「最後まで振り回してしまって、本当に申し訳ないと思ってる。...でも、ジョシュア君にはとても感謝してる」
ジョシュアは何も言わず、ただ静かに耳を傾けている。
「だから、ジョシュア君には誰よりも幸せになってほしいな」
こんなこと言える立場ではないが、心からの言葉だった。
胸の奥が締め付けられても、イザベラは伝えなければいけなかった。
「......本当に、ごめんなさい」
言葉を絞り出すように頭を下げると、しばらく二人の間に沈黙が流れた。
イザベラの謝罪を最後まで黙って聞いていたジョシュアは、小さく息を吐くと、静かに目を閉じた。
そして、何かを吹っ切るようにゆっくりと笑う。
どこか悲しげで、それでも何度もイザベラに癒しを与えてくれた眩しい太陽みたいな笑顔だった。
「......全部、わかっていました」
責めるような響きはどこにもない、穏やかな声だった。
「最初から、イザベラさんが僕には振り向いてくれないんだろうなって、薄々気付いていました」
その言葉に、イザベラはジョシュアに出会った当初のことを思い出した。
「でも、それでも諦めきれなくて、一緒にいたくて......あなたたちの研究を利用していたのは僕の方なんです」
自嘲するように笑うジョシュアに、イザベラは何も返すことが出来なかった。
優しいジョシュアにこんなことを言わせるほど傷つけてしまったことに胸が痛くなり、顔を俯かせる。
「だから、そんな顔しないでください」
そんなイザベラに気遣うような、優しく諭すような声だった。
それでも、イザベラの罪悪感が消えることはなく、目頭が熱くなる。
ここで泣くのは自分ではないと言い聞かせ、イザベラは涙を振り切るように顔を上げると、琥珀色の瞳と目が合った。
「...イザベラさん、ずっと僕がどうしてあなたを好きになったか知りたがっていましたよね」
イザベラは小さく頷く。
今思い返せば、あのデートも、その答えを知りたいと思ったことがきっかけだった。
結局、イザベラは答えを最後まで導き出すことができなかった。
琥珀色の瞳を細めたジョシュアが何か思い出すかのように遠くを見つめる。
「まだあの中庭に桜が咲く前に、一度だけお会いしているんです」
初めて耳にするその事実に、イザベラは目を瞬かせる。
思い出そうと思考を巡らせるも、そんな記憶はまったくなく、首を傾げる。
そんなイザベラを見て、ジョシュアは少しだけ困ったように笑った。
「覚えていないのも無理はありません。イザベラさん、あの時も取れかかった制服のボタンを縫ってくださったんですよ」
詳しく聞いても、やはり身に覚えがない。
桜が咲く前ということは、イザベラが魔術省に入省したてのころだろうか。
あの頃は環境に慣れるのにいっぱいいっぱいで、詳細な日々の記憶があまりない。
「その時も『自分が気になっただけだから』って、名前も告げずに行ってしまって......あの時、呼び止めればよかったって、たまに思うんです」
その時のことを思い出したのか、ジョシュアは小さく笑って、目を伏せる。
そして、覚悟を決めたようにゆっくりと視線を上げ、真っ直ぐイザベラへと向ける。
「でも、あの時の僕は、あなたに抱いた感情が何なのかわからなかった」
イザベラは静かに耳を傾ける。
「次にあなたを見かけた時には、あなたはもうフローベル先生の助手として、毎日忙しそうに敷地内を走り回っていました。...あなたに抱いた感情が恋だったと気付いた時には、もう手遅れだったのでしょう」
そこで一息つくと、笑顔だったジョシュアの顔が歪んでいくのが見えた。
「でも、もっと早く声を掛けていれば。先生があなたの日常のすべてになる前なら、少しくらい僕を見てもらえたのかもしれません」
今にも消えてしまいそうな声は悲しみなのか、それとも後悔なのか、イザベラにはわからなかった。
二人の間に、沈黙が流れる。
悲しげに眉を寄せるジョシュアが、イザベラを見据えて、弱々しく笑う。
「......いつか、こんな日が来るんじゃないかって覚悟はしていました。でも、実際その時になると、やっぱり苦しいですね」
ずっと我慢していたのか、その言葉を口にしたジョシュアの瞳が濡れているのがわかった。
イザベラは唇を噛み締める。
「ずっと、今日が終わらなければいいのにって、現実味のないことを願ってしまいます」
振り絞るようにか細い声が落ち、イザベラは耐えきれずジョシュアから視線を逸らしたくなってしまう。
しかし、それを許さないようにジョシュアが一歩距離を詰めてきた。
「イザベラさん。僕はずっと、あなたの優しさに甘えていました。だからこそ、これ以上あなたの負担にはなりたくない」
ひとつひとつの言葉を噛みしめるように、ジョシュアは言葉を紡いでいく。
ジョシュアの右手がイザベラの左手へと伸びる。
イザベラにそれを拒む意思がないとわかると、躊躇いがちに優しく触れる。
「だけど、これだけは覚えていてください」
ゆっくりとイザベラの手を前に持ち上げると、ジョシュアの大きな手がそれを包み込む。
琥珀色の瞳が真っ直ぐイザベラを見つめる。
「僕があなたのこと、本当に好きだったこと。どうか忘れないでください」
そして、イザベラの手を名残惜しそうに強く握り、そのまま自身の額へ押し当てたジョシュアの肩は、小さく震えていた。
苦しいぐらいに胸が締め付けられるも、何も返せないイザベラは、その手が離されるまで、ただ静かにそこに立ち尽くしていた。
・
すっかり日が暮れて、辺りが暗闇に包まれ、ガス灯の光だけを頼りにイザベラは自宅へと向かって歩いていく。
別れ際、心苦しくて何も言葉が出てこなかったイザベラに、目元を赤くしたジョシュアは最後まで笑顔を向けていた。
結局、イザベラはただ彼の言葉に耳を傾けることしかできなかった。
けれども、それ以上のことを差し出すのは最後まで誠実だったジョシュアに失礼だとも思った。
これが最善だったのだと、胸の痛みに耐えながら、イザベラは何度も自分に言い聞かせた。
暗闇で一人歩いていると、不意に紫水晶の瞳がイザベラの頭をよぎる。
今頃、研究室で寝食も忘れて魔術の研究に没頭している姿を想像すると、なんだか無性に会いたくなってきてしまった。
しかし、今の胸の内をユリウスに受け止めてもらうのは違うとわかっていたイザベラは、ジョシュアとの別れを踏み締めるように、一歩一歩自分の足で前に進んでいった。




