第27話 定義するには複雑すぎる
「...えっ」
永遠とも思われた沈黙は、イザベラの口から漏れ出た小さな戸惑いで破られた。
まるで人生の全てを差し出されたような発言にイザベラは自分の耳を疑った。
とんでもない告白に、聞き間違いではなかろうかと何度も瞳を瞬かせる。
当のユリウスは表情を崩すことなく、未だにイザベラをじっと見つめている。
今までも助手をやめないでほしいなど、ユリウスから懇願されたことは何度かあったが、イザベラはそれらをあまり重く受け止めてこなかった。
何故なら、それらの発言をしたユリウス自身も、自分が何を言っているのかわかっていない様子だったからだ。
しかし、今回は違った。
イザベラが吐露した感情に対する返答として口にされた言葉だった。
その瞳にも、その言葉にも迷いはなく、ユリウスの確固たる意志が感じられる。
「そもそも、結婚というのはただの制度であって、絶対に必要というわけでもなかろう」
混乱するイザベラをよそに、ユリウスは淡々と話を続ける。
「しかし、もしそうでもしないとイザベラ、お前がわたしの元から離れるというのであれば、わたしは迷わずお前と婚姻を結ぶであろう」
結婚の必要性については全くもってその通りなのだが、そこでどうしてイザベラの名前が出てくるのかがわからなかった。
「...それって、どういうことですか?」
頭に浮かんだ疑問をそのままぶつけると、ユリウスは僅かに眉間を寄せる。
目を伏せ、ユリウスが少し考え込む。
「...わたしにも、よくわからん」
「なんですか、それは...」
ようやく答えを口にしたと思ったら、まさかの回答にイザベラは思わず口を滑らせる。
イザベラの反応が気に入らなかったのか、視線だけで不満を訴えてきた。
しかし、すぐ表情を戻し、ユリウスはゆっくりと口を開いた。
「...以前、お前が惚れ薬を飲んで一時的にあの男に好意を抱いていた時があっただろう」
何故、惚れ薬の話をし始めたのかわからないが、イザベラはゆっくりと首を縦に振る。
「あの時、薬の効果とは頭で理解していたが、お前の関心がわたしから離れると思って、冷静ではいられなかった」
当時のことを思い起こすのも嫌なのか、露骨に声が低くなり、ユリウスの表情が苦々しげに歪んだ。
「あの感情がいったい何なのか未だによくわからんが、それを抑えることができず、お前にぶつけた時に惚れ薬によって植え付けられたはずの、あの男への感情がなくなったと言っていたな」
「は、はい...」
ユリウスに迫られた時に確かに自分の中で何かが砕け散った音がした。
何故植え付けられた感情が砕けてしまったのか、イザベラがいくら考えてもわからなかった。
しかし、どうやらユリウスはその原因を突き止めたらしい。
「そこでわたしは惚れ薬によって意図的に植え付けられた感情は、本物の感情に耐えきれずに崩壊したと仮定した」
当たり前のことを話すような口振りに、イザベラは首を傾げる。
「...それは、わたしの感情ですか?それとも、先生のですか...?」
あの時、惚れ薬を飲んでいたのはイザベラだったため、ユリウスの感情に触れたイザベラの感情によって砕けたのだろうか。
それとも、ユリウスの感情があまりにも強すぎて、それだけで植え付けられた感情を打ち消してしまったのだろうか。
いったい、何が正解なのか純粋に知りたかったイザベラが問うと、ユリウスは大きく首を横に振った。
「それも断定はできん」
きっぱりと否定され、戸惑うイザベラにユリウスは淡々と続ける。
「しかし、重要なのはそこではない」
口調が強まり、イザベラの手首を掴む手に力が込められる。
「わたしがお前を失うかもしれないという焦りは確かに本物だったということだ」
事実だけを伝えるような口振りだったが、その声には微かに感情が感じられた。
真っ直ぐ見つめてくる紫水晶の瞳に、イザベラは息を呑む。
「イザベラ、わたしは助手としてではなく、お前自身がそばにいてほしい」
心臓が大きく高鳴り始める。
「わたしにとって、お前がこの先他の誰かと共に生きるということは、耐え難い苦痛に等しい。そんなことは受け入れられない」
言葉を選ぶように、ゆっくりとユリウスの口が動く。
一歩ずつ、イザベラへと迫ってくる。
射抜くような眼差しを向けられ、イザベラは動けない。
「だから、この先もわたしと一緒にいてほしい」
ユリウスの表情は動かない。それでも、その瞳から決意だけは痛いほど伝わってきた。
言葉の意味を受け止めきれず、指先に力が入った。
「そ、それは先生がわたしのことを好きってことでいいんですか...?」
差し出された感情があまりにも大きすぎて、脳内で処理できなくなったイザベラの口から、最も単純な好意の言葉が繰り出される。
それは、イザベラたちがずっと研究していたものの、理解できなかった"恋"を表す言葉だった。
「......わからん、もしイザベラと離れたくないという気持ちを恋と呼ぶのなら、そうなのだろう」
ついにユリウスが恋を理解したと思ったのだが、どうやら違ったらしい。
あまりにもユリウスらしい回答に、イザベラは拍子抜けしてしまう。
「だが、この感情は言葉で定義できるほど単純なものではない」
手首を掴んでいたユリウスの手が離れ、ゆっくりとイザベラの手を包み込む。
「イザベラ、わたしはもうお前なしでは生きていけないだろう。お前がいないと生活が成り立たないし、思考も左右され、感情もその例外ではない」
揺るぎようのない事実を淡々と述べるような告白に、イザベラの指先がかすかに震えた。
紫水晶の瞳に吸い込まれそうになる。
「先ほど、お前もわたしの隣にいたいと言っていただろう。なら、そうすればいい。何の問題もない」
むしろ何が問題なのか本気でわからないような表情でイザベラに詰め寄ってくる。
もうこれ以上は心臓が耐えられそうにない。
近づかないで欲しいと願うのに、足はその場に縫い付けられたように動かなかった。
「難しく考え過ぎるな」
これまでのユリウスの言葉によって、とっくに思考が乱されてしまっているイザベラはどう反応すればいいのかさえわからない。
乱れた思考の中から、やっとのことで言葉を絞り出す。
「でも...でも...恋という感情が定義できないなら惚れ薬はどうなるのですか?」
こんな場面でも最初に出てくることが仕事として依頼された惚れ薬のことで、イザベラもどうかとは思ったが、やはり気になってしまう。
「問題ない」
しかし、ユリウスはその問いにも何でもないように、短く答えた。
「理屈や理論で対処できない感情が恋だというのなら、天才であるわたしを含め、完全なる惚れ薬を作ることは誰にもできないだろう」
自信満々にそう結論づけるユリウスに、イザベラは開いた口が塞がらない。
「でも、王太子殿下には」
「あいつには既に増幅型と植え付け型の両方を渡してある。それをどうするかはわたしの知ったことではない」
あまりにも無責任な対応に、イザベラは咄嗟に抗議の声を上げそうになる。
けれども、ユリウスの視線から、それを許さない無言の圧が伝わってくる。
「そんなことよりも、イザベラ。お前はこの先もわたしと一緒にいてくれるのか」
表情は変わらないが、紫水晶の瞳が微かに揺れる。
包まれている指に熱が伝わってくる。
その問いは、心の底から望み続けていた未来だったはずだ。
それなのに、何故かイザベラは答えを口にすることができなかった。




