第25話 変わらないはずの日常
「研究資料を残してない!?」
まさかの返答に、イザベラが声を張り上げると、ユリウスは鬱陶しそうに目を細めた。
中和剤なしで惚れ薬の効果が切れた原因を探るために、ユリウスに今までの研究過程を記した資料を読ませてほしいとイザベラはお願いした。
すると、面倒くさそうに頬杖をつきながらイザベラの話を聞いていたユリウスから一言、『そんなものはない』と返ってきたのだ。
魔術師として研究資料を残していないことに驚きを隠せないイザベラはユリウスへとにじり寄った。
「この間、わたしが惚れ薬を飲んだ時の観察記録はさすがに残してますよね?」
「そんなもの残してるわけないだろう。書き記すだけでも腹立たしい」
小さく舌打ちをするユリウスにイザベラは開いた口が塞がらない。
何のために数日間、同行させていたと思っているんだこの感情未発達不機嫌自動製造機め!
中和剤を作る必要がなくなった今も、あの記録があったら少しでも惚れ薬について解明されるかもしれないって期待したのに見事に梯子を外されてしまった。
本当に何してたんだ、この天才は。
「それじゃあ、どうやって再現性を保ってたんですか」
「一度作った魔術陣は忘れない。お前ら凡人とは違うからな」
そういう問題ではないのだが、魔術におけるユリウスの天才性は群を抜いているので反論がしづらい。
それでも、今回は感情を軸にする魔術なのだから、感情未発達と自覚がある以上少しは慎重になってほしいものだ。
「それじゃあ、惚れ薬を作った際に用いた魔術陣を見せてください!」
「......別にいいが、何故そこまで惚れ薬に拘る」
拘るも何も、王太子からの依頼ということを忘れているのかと怒鳴りたくなったが、感情に呑まれてはいけないとイザベラは小さく息を吐いた。
「一度引き受けたことは最後までやり通すのが筋ってものです。とりあえず、魔術陣見せてください」
イマイチ腑に落ちていない様子のユリウスだったが、紙とインクを取り出し、渋々万年筆を握った。
真上から魔術陣が描き上がっていく様子を眺めていたイザベラだったが、その術式に言葉を失う。
見慣れない魔術記号が多用されており、少なくともイザベラが今まで見たことのないものばかりだ。
この国の魔術はまだ未発達のため毎年のように新しい魔術記号が上位魔術師たちによって編み出されていくのだが、ユリウスはその筆頭である。
今回の惚れ薬の魔術陣に用いられている多数の魔術記号はきっと、どの魔術書にも載っていない。
ユリウスがこの魔術陣を構築するために一から作り上げたものだと察したイザベラは目眩がしてきた。
「これで満足か」
解読不能な魔術陣を描き上げたユリウスが不満げな顔でイザベラを見上げるも、何も答えることができなかった。
もうどうすればいいのだろうか...。
ここに来て、惚れ薬解明への道がまた一歩確実に遠のいてしまった現実を目の当たりにし、イザベラは目を覆いたくなった。
当のユリウスはというと、つまらなそうに紙の上でまた新しい魔術陣を構築し始め、イザベラの悩みなど気にも留めていない様子だった。
・
どうしたものか...。
王宮へと続く長い廊下を歩きながら、イザベラは肩を落とした。
惚れ薬が出来上がり、効果が発動したのは確認したものの、原因不明のままそれが解除されてしまったため、まだ完成品と呼ぶには程遠い。
そんな未完成品を王太子に献上するわけにはいかない。
最近は考えなければならないことが多すぎる。何から答えを出せばいいのか考えるだけで頭が痛くなってくる。
「イザベラ」
いっそのこと、何処かに頭をぶつけて、全て忘れ去ってしまいたいと物騒な考えが頭に過ると、イザベラの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
久しぶりに聞いたその声にイザベラは少しだけ気持ちが楽になっていく。
「グロリア様」
軍服姿のグロリアが柔らかい表情を浮かべ、イザベラへと歩み寄ってくる。
同じフローベルなのにユリウスみたいな威圧感もないし、アルベルトみたいな得体の知れなさも感じられない。
同じ女性ということもあり、イザベラが王宮内で心底安心して接することが出来る数少ない人物である。
「久しぶりだな。ユリウスが魔術で建物を爆発しそうになったとき以来だな」
グロリアの言葉にイザベラは苦笑いを返す。
あの時はグロリアが助けに来てくれなかったら、本当に死ぬところだった。
それでもユリウスの元から離れるという選択をしなかった自分はユリウスに対する許容値があの時からすでに破綻していたのかもしれないと薄々感じ始めている。
ユリウスから離れることで、今イザベラが受けている負担を他人に押し付けるという形になってしまうので、それはイザベラとしても許容しがたい。
助手になった時点で、イザベラはユリウスの全てを受け入れる覚悟で日々の業務に励んでいるのだ。
「いつも愚弟が迷惑をかけてしまってすまない。君には本当に、いくら感謝しても足りないぐらいだ」
「いえ、助手として当然です!」
曇りなき眼で堂々と宣言するイザベラに、グロリアは紫水晶の瞳を柔らかく細める。
「しかし、将来ユリウスがフローベルを継ぎ、所帯を持つことになったら、あの子も少しは落ち着いてくれるだろう」
「...えっ」
グロリアの言葉に、イザベラの呼吸が一瞬止まる。
何を言われたのか分からず、頭の中で何度も言葉を反芻する。
「で、でも先生に後を継ぐ意思はないんじゃ...」
理解できないまま、自分の意志とは関係なく口が勝手に動いてしまったことにイザベラは驚いた。
イザベラが動揺していることに気付いていない様子のグロリアは言葉を肯定するように大きく頷いた。
「あぁ、それは本当に困ったものだ。あの子には跡取りとしての自覚があまりにも乏しい。しかし、そんな我儘が許されるのも今だけだ。父が現役を退いたら、それも通用しなくなる」
真剣な表情で家の事情を語るグロリアに、イザベラの胸の鼓動が不自然に速くなる。
「その時になったら、ユリウスもいずれどこかの令嬢と婚姻を結び、所帯を持つことで今のような無茶をすることはなくなるだろう」
ユリウスと同じ、紫水晶の瞳が真っ直ぐイザベラを見る。
「そうなったら、イザベラ、君への負担も少しばかり軽くなるはずだ。もうしばらく、辛抱していただけるととても助かるよ」
だから君がいつまでも一人でユリウスを背負う必要はないと、イザベラを安心させるような優しくて穏やかな口振りだった。
しかし、イザベラにとっては頭を強く打ち付けられるような衝撃が体中に走っていた。
イザベラはグロリアの言葉に反応することができず、その場でただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
いつかユリウスが誰かと婚姻を結ぶ、その言葉だけが、いつまでもイザベラの耳の奥に残り、離れなかった。
・
グロリアと別れた後、イザベラはゆっくりと来た道を戻りながら、先ほどの会話を思い出していた。
度々忘れそうになるが、ユリウスは名門フローベル伯爵家の嫡男であり、跡取り問題はどうあっても切り離せないとイザベラも知っていた。
しかし、当の本人に跡を継ぐ意思がまるでない上に、イザベラも庶民出身で貴族の常識などには疎く、事の重大さをあまり深く理解していなかった。
それに常日頃からユリウスの非常識っぷりに振り回され、業務にも追われて、意識することが殆どなかった。
そんな時に、再度その事実をユリウスの親族であるグロリアに突きつけられてしまったのだ。
今更何に驚いているのか。
庶民であるイザベラにとっては現実味のない話だが、家の存続のために結婚して跡を継ぐのは貴族としては当然の責務である。
それは天才魔術師であるユリウスだって例外ではないはずだ。
ましてや国の創立当初から存在している名門伯爵家なのだから、どうあっても逃れることはできないだろう。
あんな変人と結婚する羽目になる女性が不憫だとは思うが、それはそれ、イザベラには関係ない。
伯爵家を継いで誰かと結婚しようが、魔術が全てのユリウスが簡単に今の魔術省での地位まで手放すとは思えない。
だから、イザベラがすることは今とさほど変わらないはずだ。
研究室を書類の山から守り、他の研究室からの依頼や苦情を引き受け、度々行方不明になるユリウスを回収する。
これだけでも十分に助手としての範疇を超えている。
むしろグロリアの言うとおり、いいことなのかもしれない。
結婚することによってユリウスの生活面の世話がイザベラではなく、未来の妻に移行される。
そしたらいちいち、身嗜みに気を配る必要もなくなるし、睡眠不足や体調不良を気にすることだってなくなる。
現在なんとなく続けている昼食作りだって、やらなくてよくなるはずだ。
もうユリウスの偏食に頭を悩ますことも、残されることに苛つくこともない。
朝の準備もゆっくり出来るし、考えれば考えるほど良いことづくしではないか。
だから、そんな未来を思い浮かべて心躍ることはあっても、こんな風に息が出来なくなるくらい苦しくなるなんてありえないことなのだ。
気付いたら、イザベラの瞳から涙が止めどなく溢れていた。
わけもわからず溢れてくる涙を拭いながら足元を見ると、イザベラの歩いてきた道には点々と涙の跡が残っていた。
いくら拭っても止まらない涙に戸惑いながら、頭の中でユリウスの隣に自分ではない誰かがいることを想像してしまう。
それだけで胸が締め付けられるように痛み、息が出来なくなる。
助手としてユリウスを支えられるなら、それで十分なはずなのに、いったい何がそんなに不安なのだろうか。
自分でも制御しきれない感情に呑み込まれ、涙が止まるまで、イザベラは暫くの間そこから動けなくなってしまった。
・
ようやく涙が止まり、ぐしゃぐしゃになった顔を洗面所で洗い流し、鏡を見る。
惚れ薬による観察を日々行っていたせいか、ユリウスは少しの表情の変化を見ただけでイザベラの機嫌や体調がわかるようになってしまった。
泣いていたなんてバレてしまったら、何があったと問い詰められるに決まってる。
そのぐらいユリウスは今、イザベラの変化に敏感になっている。
そんなことになったら、イザベラは自分でも抑えられない感情をユリウスの前で吐露する羽目になる。
ユリウスが結婚するという可能性を想像しただけで苦しくなるなんて面倒くさい感情がバレてしまった時のユリウスの反応を見るのが怖い。
それだけは絶対に避けたかった。
だから、いつものように振る舞わなければ。
いつものように不遜で我儘な、人間の感情が読めない天才に振り回される助手にイザベラはならなければならないのだ。
鏡の前で口角を上げ、無理やり笑顔を作る。
少し不自然だったので、もう一回鏡に向かって笑ってみせる。
うん、大丈夫。変じゃない。
濡れてしまった顔をタオルで拭き、乱れた髪を結い直す。
鏡の中の自分をもう一度よく見てみる。
いつものイザベラだ。
これならユリウスだって、イザベラが泣いていたことに気付かないだろう。
「よしっ」
気合を入れるように声を上げ、洗面所から出て、ユリウスのいる研究室へと向かう。
助手になってから初めて、ユリウスが研究室から失踪していることをイザベラは願った。
しかし、ユリウスはそこにいた。
扉の開閉音でイザベラが帰ってきたことに気付いたユリウスが作業を止め、ゆっくりと顔を上げる。
紫水晶の瞳がイザベラに向けられ、胸がぎゅっと締め付けられた気がした。
「コーヒー、淹れ直しますね」
それを誤魔化すようにイザベラは空になって床に転がっていたユリウスのコーヒーカップを拾い上げ、給湯スペースへと向かった。
ユリウスが気に留めることなく、作業に戻った気配を背中で感じ、イザベラは緊張の糸が解れたように息を小さく吐いた。
いつものようにコーヒーポットに水を入れる。
魔術陣が刻まれているコーヒーポットの中で自然と出来上がっていくコーヒーの様子をぼんやりと眺めながら、この日常もいずれ変わってしまうのかなとふと思ってしまった。
それを想像するだけで、目頭が熱くなってしまったイザベラは必死にその考えを脳内から追い出す。
コーヒーカップにコーヒーを注ぎ入れ、ぬるくなるまで少し待つ。
なんだか、今日はいつもよりぬるくなるまでの時間がとても長く感じるイザベラだった。




