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第16話 わたしの助手




名前を呼ばれ、イザベラの動きが一瞬止まる。


声がしたほうを振り向くと、廊下の先に金髪の長身男性がこちらに向かってくる姿が見えた。


遠くにいるうちは表情があまりよく見えなかったが、近付いてくるにつれ、硬い面持ちが徐々に明らかになっていく。


眉をひそめ、唇を固く結び、鋭い眼差しでいつになく睨みを利かせている。


あっ、相当怒ってるわ、これ...。


終始仏頂面で不機嫌に見えるユリウスだが、普段と身に纏っている空気が違うことが、一瞬にしてわかった。


蛇に睨まれた蛙のように動けなくなったイザベラとは裏腹に、アルベルトは甥っ子を認識するとなんとも気の抜けた声を、ユリウスにかけた。



「やぁ、ユリウスじゃないか。久しぶりだね、元気にしてたかい?」



こんなひりついた空気の中、よくそんな呑気にしていられるなとアルベルトを横目で見ると、何がそんなに嬉しいのか彼は今まで見たことのないとびきりの笑顔をユリウスに向けていた。


今はそんな状況ではないと我に返ったイザベラは掴まれた手を振り解こうと腕を上下に何度も振るも、アルベルトの手が離れることはなかった。


このままだとユリウスにあらぬ誤解をされてしまうと危惧したイザベラが必死になればなるほどアルベルトの手の力が強くなっていく感じがした。


何故っ!?


そんなこんなしているうちに、近付いてくる足音がすぐ隣に止まると、真上からとんでもない圧が送られてくるのがわかった。


弁解をしなければと顔を上げようとした瞬間、ユリウスがイザベラの手首を引き、アルベルトから引き剥がした。



「わたしの助手に触るな」



聞いたことのないような低く、凍てつくような声に、自分に向けられたものではないとわかりながらも、イザベラの心臓がぞわりと震える。



「ごめんごめん、いつもの癖で、ついうっかり」



イザベラを隠すように二人の間に割って入ってきているユリウスの背中のせいで、いったい彼がどんな顔をしているのかわからないが、きっとものすごい形相でアルベルトを睨んでいるんだろう。



「どうしたんだい、ユリウス?いつになく、怖い顔しちゃって...もしかしてイザベラ君が僕の助手になってしまうかもって噂を聞きつけたのかい?」


「ちょっ...!!」



わざと煽るような言葉でユリウスを挑発するアルベルトに、声を上げそうになる。



「貴様にイザベラをやるつもりはない。イザベラはわたしのだ」



しかし、イザベラの予想とは裏腹にユリウスは静かに声を落としただけだった。


ただその声は低く、押し殺したような声で、イザベラは小さく息を呑む。


怒鳴っているわけではない。それなのに、普段の不機嫌とは比べものにならないほどの怒気が滲んでいた。


そのままユリウスはアルベルトの返事を待たず、体を翻し、イザベラの手首を引いて、その場から足早で離れていく。


状況をうまく飲み込めないイザベラは引かれるがまま、その背中についていかざるを得なかった。


途中、後ろを振り返ると、アルベルトがにこやかな笑顔を向けて、手を振ってきている。


こんな状況を作り上げたうえに、かき乱すだけかき乱しといて、最後は後始末もしないなんて、なんてたちが悪い...!


もう腹立たしさを隠す気もないイザベラは引きずられながら、アルベルトを睨むのであった。



・



「先生、先生...!!」



アルベルトの姿も見えなくなり、随分と歩いたが、ユリウスは未だにイザベラの手首を掴んだまま離さない。


後ろから何度も声をかけてるのに、耳に入っていないのか反応してくれない。


完全に怒っているのは見てわかるのだが、今回の怒りの原因がイマイチよくわからないためイザベラは困惑している。


たぶんイザベラがアルベルトの下へ異動すると噂を聞いて、自分の所有物である助手を取られると思ったから、不機嫌になるのはわかる。


しかし、それだけでこんなに怒ることがあるだろうか。


今までも不可解な行動を起こすことはよくあったが、全部子供の癇癪のようなものだと解釈することができた。


こんな静かに、感情を押し殺すような怒り方、今までイザベラは見たことがない。


だから、余計に怖かった。


この場合、どう対処すればいいのか、イザベラにはわからなかったからだ。


とりあえず、怒りの一因になってそうな、異動の噂について誤解は解いておこうと声を張り上げようとする。


だが、先ほどから呼びかけても反応しなかったため、少し危ないがイザベラはその場に立ち止まる。


引っ張られている腕が少し痛んだが、イザベラが立ち止まったことに気付いたユリウスはようやく後ろを振り向いてくれた。


その表情は険しく、今まで見た中でもかなり怒っているということだけはわかる。


若干怖じ気ついてしまったが、イザベラは拳を握りしめ、一歩踏み出そうとする。



「助手を辞めることは、許さない」


「...えっ?」



しかし、ユリウスの口から出てきた言葉に動きが止まる。


呆気に取られていると、ユリウスが手首を掴んだまま詰め寄って来そうになり、イザベラは思わず一歩下がる。



「あ、あの...」


「誰がコーヒーを淹れる」


「...は?」



突然何を言い出したかと、素っ頓狂な声が漏れてしまったが、ユリウスの表情はまだ険しい。



「誰が昼食を用意する」


「えっ、あの...」



反論しようとするも、ユリウスが一歩ずつ近付いてくるため、気迫に押されてなのか、イザベラもそれに合わせて後ろに下がっていく。



「誰が部屋の片付けをする」


「...」



それは、本来の助手の仕事ではないのではと突っ込みたくなるも、あまりにもユリウスの表情が真剣で、つい黙ってしまう。


気付いたら背中には壁で、もう後ろに下がることが出来ないのに、ユリウスだけが迫ってくる。


アルベルトと同じ紫水晶の瞳に見つめられてるのに、何故かユリウスのそれからは逃げられる気がしなかった。



「あの、先生...」


「今の給料が不満なら、増額することも可能だ」



声を出した直後、ユリウス自身もその言葉に違和感を覚えたのか、僅かに眉をひそめた。


けれど、止まらなかった。


何かに追い立てられるように、掴んでいるイザベラの手首にほんの少し力がこもる。



「先生、わたしは」


「なんなら、わたしが工面する。そうすれば...一生涯、金には困らない」



今度こそイザベラは言葉を失った。


ユリウスは、まるで自分でも何を差し出そうとしているのかわかっていないようだった。


ただ、イザベラをこの場に繋ぎ止めるための理由を、必死に探しているように見えた。



「だから、わたしの助手を辞めないでほしい......」



懇願するような紫水晶の瞳を向けられ、イザベラは思わず口籠る。


これは怒りではないのかもしれない。


そう気付いた瞬間、どうしていいかわからなくなった。


さすがに顔が美形なだけあって、見慣れたユリウスの顔でもこれだけ近付かれたら意識しないわけにはいかず、心臓に非常に悪い。


ついに色んなことが限界で、耐えられなくなったイザベラは瞼を瞑り、ユリウスに掴まれていないほうの腕の拳を握る。



「だから!!!!誰も、先生の助手を辞めるなんて一言も言ってないじゃないですか!!!!!」



そして、力の限り叫んだ。


かなりの声量だったのか、廊下の向こう側までイザベラの声が木霊していく。



「........は?」



気の抜けた声が聞こえたと同時に、掴まれていた腕の力も緩んだので、イザベラは咄嗟にユリウスと壁の間から抜け出す。


異常な動悸をきたす胸をなんとか落ち着かせ、呆然と立ち尽くしているユリウスを睨み上げる。



「わたし、先生の助手辞めるつもり、ありません!!!なんで勝手に話を進めてるんですか!?」


「しかし、先ほどアルベルトと...」


「あれは、アルベルト先生に噂の撤回をお願いしていただけです!!!あの人のせいで噂が一人歩きしてるんです...!!!」



ユリウスは、イザベラの反応を見て、眉をひそめ一瞬だけ考え込む素振りを見せるも、すぐにいつもの仏頂面に戻り、小さく舌打ちする。



「あの男に、踊らされたということか...」


「...先生?」



不愉快そうにイザベラを一瞥するユリウスの表情は、すでにいつものもので、イザベラは少しだけ安堵する。



「不愉快だ、戻る」



そして、すぐに身を翻し、ユリウスはイザベラを置いて、一人研究室へと歩き出す。


いったい、なんだったんだ...。


一人取り残されたイザベラの腹の底から釈然としない気持ちが沸々と沸き上がってくる。


今思い返せば、一連の騒動、全てフローベル家の人間にイザベラが振り回されただけではないだろうか。


アルベルトが去り際に見せてきたあの笑みはきっと、ユリウスの反応を楽しんでいたものに違いない。


ユリウスもユリウスで普通ではなかった。


いつもだったら、あんな噂程度であんな風に取り乱すことなんてあるはずがない。


助手が引き抜かれる噂程度で...


そこでイザベラは先ほどのユリウスの懇願してくる紫水晶の瞳を思い出す。


もしかして、助手ではなくて、イザベラがいなくなってしまうことを危惧しての行動だったのだろうか。


ユリウスが自分に好意を抱いていることは知っていたが、まさかここまでだとは思っていなかった。


自分が思っていた以上に、ユリウスの想いは強いものなのかもしれない。


すると、体のどこかしらがこそばゆくなり、なんだか落ち着かない気分になるイザベラは、気を紛らわせるために胸元の書類を強く抱き寄せ、ユリウスの後を追いかけた。




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