第15話 噂の撤回を、お願いします
イザベラが体調不良で倒れてから、一ヶ月経とうとしていた。
いつもと変わりない日常に戻りつつあるイザベラは、今日も他の研究室へと赴き、仕事の依頼を受けたり、以前受けた案件の進捗を確認されたりとあっちこっち奔走していた。
最後はサミュエルの研究室で、以前ユリウスが構築した未知の感染症の治療魔術の治験データを受け取りに行く。
そこからまた改善を繰り返して、マルコーたち医師によって患者に運用される流れになるのだが、ユリウスが関わるとそこまで辿り着くのにかなり時間を要することになる。
もちろん、やる気のないユリウスを煽てる時間に一番時間を費やすのはもはや言うまでもない。
それでも研究室の至るところに大量に積まれていく書類を無視できないイザベラはこうやって日々、一人で奔走するのであった。
「失礼します。イザベラです」
サミュエルの研究室の扉をノックすると、中から小さく返事が聞こえたので、扉を開ける。
部屋の中に入ると、サミュエルは不在で、助手のエリスが笑顔で出迎えてくれた。
「お久しぶりです、イザベラさん」
小柄のエリスは見た目からはわからないが、魔術省の中で中堅にあたるエリート魔術師だ。
本人はサミュエルを敬愛しており、彼の研究を支えることが自分の使命だと思っているらしい。
形は違うが、上司を支える助手の鑑みたいな人で、ユリウスの助手になってまだ日が浅いイザベラにとっては一番身近なお手本にすべき人なのである。
「こちら、治験のデータになります。細かいところは読んでいただければわかるのですが、効果は十分に見込めるとサミュエル先生は判断しております」
治験データの書類を受け取り、イザベラは数枚捲る。
確かにユリウスによって構築された魔術陣を利用した治療法で、感染症の症状が和らぎ、数日で完治すると記載されていた。
「ただ、感染症の症状は薄れていくのですが、副作用としてとんでもない悪夢にうなされパニック状態になってしまう事例も複数確認されているので、今回はそこを考慮して構築を依頼したいのです」
対象の感染症に効果があれば他はどうでもいいというユリウスらしい魔術ではあるが、悪夢にうなされないと治らない病気など恐ろしくて治療するのを躊躇ってしまう危険性がある。
「わかりました。なるべく早く対処していただけるように、努力します」
そして、そのことをユリウスに理解してもらうように説得するのがイザベラの仕事であった。
きっとユリウスのことだから、症状がなくなるように魔術陣を構築したのに、副作用について文句が出てくるなんて不愉快極まりないなどと機嫌を損ねるのだろう。
「お願いします。本当にイザベラさんには毎回ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「いえ、大丈夫です。これも仕事ですから」
仕事だから仕方ないと割り切らないと、あんな成人男性の皮を被った赤ん坊とまともに付き合っていられない。
「でも、それもあと少しで終わりですね!同じフローベルでも、アルベルト先生なら多少マシですし」
書類も受け取ったことだし、そろそろ帰ろうと挨拶しようとすると、エリスがよくわからないことを言い出した。
「...どうして、アルベルト先生の名前が出るんですか?」
つい最近、久しぶりにアルベルトから鬱陶しいぐらい熱烈な勧誘に出くわしたイザベラの眉間にしわが寄った。
イザベラの反応を不思議に思ったのか、エリスが小さく首を傾げる。
「イザベラさん、ユリウス先生の研究室からアルベルト先生の研究室に、異動されるんじゃないんですか?」
その言葉に、イザベラは大きく目を見開かせる。
「えっ...、どこからそんな話が?」
「どこって、最近みなさん噂されてますよ?イザベラさんが倒れて、ついにユリウス先生に愛想を尽かしたって...」
毎日のように王宮中走り回っているが、そんな噂、今初めて聞いた。
ここ最近頭の中でずっとユリウスに食べさせるための食事について考えていたため、あまり話し声に耳を傾けていなかった。
それどころか、自分で食事を用意するようになったため人が集まる食堂にも行かず、外部からの情報を得にくくなっていたのかもしれない。
「違うんですか?」
「違うも何も、わたしはそんな話一切知りません!!今、初めて知りました!!」
全力で否定するイザベラにエリスも少し戸惑っているのか、目を何度も瞬かせる。
「そうなんですね、でもなんでそんな噂が流れたのでしょう...?」
噂の出所に、イザベラは心当たりがあった。
というか、最初からこんな噂を放置して得をする人間なんて一人しかいない。
「すいません、わたしはこれで失礼します!!治験データ、ありがとうございました!!」
困惑気味のエリスに一礼をし、イザベラはサミュエルの研究室を後にした。
書類を胸に抱えながら、ユリウスの研究室にすぐに戻らず、ある人物を探し出すべく王宮敷地内を走り回る。
人気のないところで気絶しているユリウスと違って、その人物は逆に人の多いところにいるはずだと読んだイザベラだったが、何故かすぐには見つからない。
読みが外れたかと落胆し、肩を落としながら王宮から魔術省に続く廊下を歩いていると、目の前にローブ姿の金髪の長身男性の後ろ姿が見えた。
後ろ姿だけならユリウスにも見えなくはないが、彼はローブを羽織ると足元を取られてよく転ぶので、普段それを身につけることはない。
それに毎日お世話をしているイザベラにとってユリウスとその他大勢を見分けることなど造作もないことだった。
「アルベルト先生!!!」
大声でその人物の名前を呼ぶと、金髪の男性が振り返る。
イザベラの姿を確認すると、紫水晶の瞳がゆっくりと目元をやわらげ、微笑んだ。
「やぁ、イザベラ君。君から声をかけてくれるなんて、珍しいね」
白々しい笑顔に若干のイラつきを覚えるも、イザベラは普段なら距離を取るはずのアルベルトに自ら近付いていく。
「どういうおつもりですか?」
「なんのことだい?」
なんのことかわかっているはずなのに、首を傾げ、目を瞬かせる仕草にイザベラは怒りを抑えるように胸の書類を強く抱き寄せる。
ここでアルベルトに怒鳴っても、ただ茶化されるだけだと理解しているので、落ち着かせるために小さく息を吐く。
そして、アルベルトに向き合う。
「何故、噂を否定しないのですか」
異動の噂はたぶん、少し前にアルベルトと廊下で話していたところを誰かに見られてしまったことが発端だとイザベラは推測している。
魔術省に所属する魔術師なら誰もがイザベラがユリウスに苦労していることを把握している。
それを知った上で、そんな毎日苦労が絶えないイザベラが体調不良で倒れたと聞いたら誰だってユリウスが原因かもしれないと少なからず考えてしまうかもしれない。
その状態であの日のアルベルトの熱烈な勧誘を目撃してしまったら、イザベラの異動を疑いたくもなる。
「あぁ、あの噂のことか。...別に僕はそれについて肯定も否定もしてないよ。ただ、君は僕の下へ異動することになるのかって聞かれたので、黙って微笑んだだけだよ」
「それが、肯定と捉えられたから、噂が流れてるんじゃないですか!!」
やはり、イザベラの推測は正しかった。
あの日のアルベルトとの会話を目撃されただけだったらこんな噂、そもそも流れない。
「そんな怒ることないじゃないか。それに僕がイザベラ君を助手として欲してるのは本当のことだ。この際、噂を本当にしてしまってもいいかもしれない」
案の定、アルベルトは噂が流れてしまった原因が自分であることに責任を感じていない。
むしろこの状況を楽しんでいるように見えて、イザベラの中でアルベルトへの怒りが少しずつ膨らんでいく。
そのせいで、アルベルトがいつものように距離を詰めてきていることに気が付くことが出来なかった。
「こんな時に、冗談言わないでください!!」
「冗談じゃないさ、僕はいつだって本気さ」
気付いたら、紫水晶の瞳がすぐ近くまで迫っていた。
書類を掴んでいたはずの右手もいつのまにか、アルベルトの手中に収められていたが、イザベラは気にすることなく、目の前のアルベルトを真剣な表情で真っ直ぐ見つめる。
「アルベルト先生は嘘つきです」
はっきりとイザベラが告げると、アルベルトの瞳が微かに揺れた気がした。
「もし、アルベルト先生が本気でわたしを助手にしたいなら、とうの昔に事務局でわたしの所属をユリウス先生の研究室からアルベルト先生のものへと変更なさっているはずです。先生方にはその権利がありますよね?」
魔術師の所属研究室が突然変わることなど、よくある話だ。
研究室を持つ上位の魔術師たちは、魔術師の適性や能力を評価し、その時扱っている研究に必要な人材を協議のうえで引き抜き合うことがある。
その場合、研究室持ちの魔術師は引き抜きたい魔術師に直談判し、意思を尊重したうえで所属を変更することが制度上可能なのである。
「でも、わたしはユリウス先生の助手を今でも続けることが出来ています。そのことが、何よりもあなたが本気ではない、と裏付ける根拠になります」
曇りなき眼でイザベラがそう言い切ると、笑顔だったアルベルトが一瞬だけ真顔になった。
しかし、すぐに目を細め、イザベラにより一層詰め寄る。
「...そこまでわかっているなら、何故そうまでして噂を止めたいんだい?君には何ら影響がないじゃないか」
アルベルトの言う通りだ。
噂があろうがなかろうが、イザベラはユリウスの助手を辞めるつもりなどないし、アルベルトも本気でイザベラを引き抜こうとは考えていない。
「はい、わたしにはありません」
それでもイザベラはこの噂を止める必要があった。
「でも、ユリウス先生にご迷惑をお掛けしてしまいます」
イザベラにとって、何より優先されるべきなのは自分の評価よりもユリウスのことだった。
予想外の返答だったのか、いつも余裕たっぷりのアルベルトが驚きで目を丸くする。
「...ユリウス?」
甥っ子の名前をアルベルトが呟くと、イザベラは力強く頷いた。
「はい、今回の噂はわたしが倒れたことによって、ユリウス先生に愛想を尽かしたわたしがアルベルト先生の元に異動するというものです」
もしもこの噂が、アルベルトがイザベラをユリウスから引き抜いた、もしくはユリウスがイザベラに愛想を尽かしクビにしたといういうものだったら、イザベラもここまで躍起になって、噂の否定を要求することはなかっただろう。
ところが、今流れている噂はイザベラがユリウスを見限ったというものになっており、それが彼女にとっては我慢ならないことだった。
「この噂で、先生の評価が不当になされています」
確かにユリウスはどうしようもない変人だ。
魔術以外のことはからっきしで、常に生命の危機に瀕している。
他人に興味がないせいで、人の心がわからず、言動が生まれたての赤ん坊のような人だ。
それでも、それらを加味しても、ユリウスは尊敬に値すべき魔術師なのだ。
「今回、わたしが倒れたのはわたしの自己責任によるものです」
食事を少なくしたのも、倒れるまで働いたのも、全てイザベラが決めたことだ。ユリウスは一度だってイザベラにそのような行動を強制することはなかった。
原因を作ったのはユリウスかもしれないが、責任まで負わされるのは納得ができない。
そして、それによってユリウスの人としての評価が下がることがイザベラにとっては何よりもイヤだった。
「そのことで、わたしが先生の助手を辞めるなんてことは絶対にありえません」
それだけは誰にも譲れない、イザベラの中で唯一の信念だった。
「だから、どうか撤回を」
ユリウスと同じ紫水晶の瞳を真っ直ぐ見据え、イザベラは力強く言葉を放った。
静かにイザベラの主張を聞いていたアルベルトの顔にいつもの飄々とした微笑みは見られなかった。
少しの沈黙の後、アルベルトは腑に落ちたように小さく微笑み、肩を落とした。
「なるほど...。ユリウスが、君を手放さない理由がよくわかったよ」
聞き取れないぐらいの小さな声で何かを呟いたアルベルトはぐいっと自分の胸元にイザベラの手を寄せる。
「やはり、君は興味深い。本当に君が、欲しくなってしまいそうだ」
この期に及んで、まだそんな冗談を抜かしてくるアルベルトにさすがのイザベラも本気で怒ってしまいそうになる。
「だから、冗談はやめてください!!!あと、手を離してください!!!」
話に夢中になっていて、ようやくアルベルトに掴まれていることを認識したイザベラは逃れるために手を引くが、びくともしない。
力強く体を引こうとするも、成人男性の力に勝てるはずもなく、抵抗虚しく掴まれたままだ。
足でも踏んでやろうかと、足元に視線を落とし、狙いを定めていると、聞き覚えのある声が低く廊下に響いた。
「ーーイザベラ」




