第10話 わたしの名を呼んでみろ
食堂でイザベラは少し遅めの昼食をとっていた。
王宮内の食堂は王宮で働いている人々がいつでも自由に利用できるため、常に人でごった返している。
イザベラは午後の業務の効率のため、昼食は軽めに済ませるので食堂で食事をとることは滅多にない。
しかし、ここ最近は時間を見つけては食堂に来ることにしている。
「本当にヤバいかもしれない!何も手につかないもん!!」
近くに座っている女性たちの会話にイザベラは聞き耳を立てる。
そして、手元の紙に彼女たちの会話の内容の要点を書き記した。
ここ最近、ユリウスの惚れ薬作製のための研究がまるっきり進んでいないことにイザベラはいよいよ本気で焦り始めていた。
ジョシュアとデートをして、恋について観察しようにもそもそも休みが合わない。
そして困ったことに、肝心のユリウス本人は、惚れ薬への興味を少しずつ失いつつあった。
研究費凍結を脅し文句にされているが、そもそもユリウスは経費管理が壊滅的なので、研究費の管理は全てイザベラが担っている。
たとえこのまま研究費が凍結され続けても、フローベル家の潤沢な資産がある限り、ユリウスが困ることはまずないだろう。
しかし、イザベラは違う。
ごく一般的な庶民で、給料を貰わないと生きていけないのだ。本当に死活問題である。
さすがに2ヶ月続けて無給は厳しいので、イザベラは自発的に恋について調べていた。
そして最近、人でごった返している食堂では、意外と世間話として恋の話をしている女性が多いことに気付いた。
そのため、イザベラはそんな彼女らの話を聞くために足繁く食堂に通うようになったのだ。
今聞き耳をたてている女性たちの会話を要約すると、一人の女性に好きな人ができた。
彼女は好きな相手のことを無意識に目で追ってしまい、気付いたらその人のことばかり考えていて、何も手がつかないときがあるらしい。
これらの特徴を見る限り、彼女が好きになったのは赤ちゃんみたいな人らしい。
赤ちゃんを見ている時も危険なことしてないか目が離せないし、四六時中世話などをしていたら自分のことなんて手につかない。
そこでイザベラは気付いてしまった。
この特徴がまんまユリウスを見ている時の自分に当てはまってしまうということに。
そんなことあり得るのかと、イザベラはもう一度自分でまとめた要点を見直す。
しかし、何度読み返しても、思い当たる節しかない。
もしかして、自分はすでにユリウスに恋をしているのかと疑いを抱き始めたイザベラだったが、次に耳に入ってきた会話でその可能性は瞬時に吹き飛んだ。
「その人のことを想うと、胸がギューっと苦しくなって、眠れなくなるもん」
あっ、違うわ。
イザベラは、ユリウスのことで頭を悩ますことはあっても、胸に不調をきたすことはない。
ましてや、彼のことを考えて、眠れないなんてことは一度もない。むしろ、今は来月の家賃の支払いのことを考えるだけで寝付けなくなるほどだ。
イザベラは少し考え、これはあまり参考にならないなと、要約した会話の内容に二重線を引いた。
女性たちの会話を聞いていたおかげでだいぶ長居してしまったので、イザベラは立ち上がり、食堂を後にした。
「イザベラさーーん」
食堂から研究室に戻る途中、聞き覚えのある声で呼ばれ、立ち止まる。
振り返ると、ジョシュアがいつものように手を振りながら、笑顔で駆け寄ってくる。
「こんにちは、ジョシュア君」
「こんにちは、イザベラさん。今日はイザベラさんにプレゼントがあるんです!!」
やけにご機嫌なジョシュアは、抱えていた箱をイザベラへと差し出す。
「...プレゼント?」
差し出された箱に視線を落とし、イザベラは小さく首を傾げた。
・
桜が舞い散る中庭の噴水近くのベンチにイザベラはジョシュアと隣り合わせで座った。
「うわぁっ、すごい...!」
受け取った箱を開けると、クッキーが箱いっぱいに詰められていた。
アイスボックスクッキー、アイシングクッキー、型抜きクッキー、ジャムサンドクッキーなど様々な種類がある。
「これ、全部ジョシュア君が作ったの?」
「はい!イザベラさん、甘いものがお好きと以前仰っていたので、練習しました」
そんなこと言ったっけってイザベラは記憶を巡らせるも思い出せなかった。
しかし、前回のデートでは何故ジョシュアがイザベラのことを好きになったのかを考えることに必死になっていたので、実のところどんな会話をしたのか殆ど覚えていない。
だから、ジョシュアがそう言ったのなら、そうなのだろうとイザベラは笑顔で誤魔化した。
「すごいね。一つ、食べてみてもいい?」
「一つとは言わず、全てイザベラさんのために作ったので、全部どうぞ」
たくさんのクッキーの中からイザベラは花形のクッキーを選び、口に運ぶ。
サクッとした軽い食感に、程よい甘さが口の中に広がる。
「美味しい!」
「本当ですか!?嬉しいです!!」
純粋な感想を述べると、ジョシュアは犬みたいに尻尾を振ってそうに喜びを見せてくれた。
同時に、空いている右隣に誰かが座る気配がした。
「先生!?」
振り向くと、仏頂面のユリウスが座っており、驚いたイザベラは思わず持っていた箱を落としそうになった。
なぜこんなところにユリウスがいるのだろうと疑問に思ったが、いつもの徘徊癖で外へ出て、力尽きたところにちょうどいいベンチがあった。座ってみたら、偶然イザベラたちがいた。
きっと、そんなところだろう。
特に何も言葉を発してこないが、ユリウスがイザベラの持っている箱をじっと見ている。
その視線に気付いたイザベラは箱から無造作に一枚選び取って、ユリウスに差し出す。
「どうぞ」
すると、ユリウスはなんの躊躇いもなく、イザベラの手から直接クッキーを口に含んだ。
吐き出すことなく口を動かしているということは、それなりに食べられるとユリウスが判断したことにイザベラは胸を撫で下ろす。
「美味しいですよね、ジョシュア君が作ったんですよ。そのクッキー」
そこで初めてイザベラの左隣に座っているジョシュアに視線を向けたユリウスだったが、すぐに逸らす。
「...お前には、少し物足りないのではないか」
ぽつりと呟くように発せられた言葉にイザベラは少し驚いた。
確かに、イザベラはもう少し甘いほうが好みなのだが、まさかユリウスがそのことを知っていたとは意外である。
「そんなことないですよ。おいしいですよ、すごく」
しかし、作ってくれた本人の前でそんなこと言えるはずないので、イザベラはまた一枚、口の中に入れる。
ついでにユリウスの口の中にももう一枚入れると、ゆっくりと咀嚼している。
この人ちゃんとお昼ご飯食べたのかなと心配になり、ユリウスにもう一枚食べさせようとすると、左隣から視線を感じた。
三枚目をユリウスの口に押し込み、振り向くと、ジョシュアが苦笑いとも困惑ともつかない顔でイザベラを見ていた。
今まで見たことない表情にイザベラはとんでもないことをしてしまったと気付く。
このクッキーはジョシュアがイザベラに作ってくれたものだ。
それをジョシュアの許可なく他人に食べさせるのはすごく失礼な行為にあたる。
「ご、ごめんね。ジョシュア君。勝手に先生に食べさせて...」
条件反射でついユリウスにクッキーを与えてしまったことを謝罪すると、ジョシュアは複雑そうな面持ちのまま首を振る。
「...いえ、イザベラさんが喜んでくれてるなら、それでいいです」
気にしてないとも取れる発言だが、表情も暗いし、声もなんとなく硬い。
やってしまったとジョシュアを傷つけてしまったことに、イザベラは申し訳ない気持ちになった。
「...それよりもお前、今までどこをほっつき歩いていた」
今度は右隣から声をかけられたので、そちらを向くと、ユリウスが無愛想な表情のままイザベラを見下ろしている。
ユリウスがイザベラの所在を気にするなんて珍しいなと思いつつ、イザベラは素直に答えた。
「どこって...、食堂に行っていました」
「何のために」
「えっ、食事をしに行ったんですけど……すみません、わたしは先生と違って、食べないと頭が回らないので……」
それにしても、今までにない変な質問をしてくるんだなと違和感を感じた。
もしかして研究室を出る前に何か不手際をしてしまったのではないのかとイザベラは少し不安になった。
そうでないとユリウスがイザベラの所在を気にするはずがない。
「もしかして、何かありましたか...?」
「.........」
何も答えてくれないユリウスがイザベラの不安を煽ってくる。
「まさか、何か不備でも?それとも何か足りないものでも?」
「...別に、お前が気にすることではない」
煩わしそうにそっぽ向かれ、イザベラはますます不安になる。
「そんなはずないですよね!?絶対何かありましたよね!?」
「うるさい、お前には関係ない」
「なんで、今日はそんなに頑なに教えてくれないんですか?」
「しつこい。お前に、話すことは何もない」
今すぐにでも取っ組み合いが始まりそうな雰囲気の中、左隣のジョシュアが静かに声を落とした。
「あの」
言い争いが止まり、イザベラとユリウスの視線がジョシュアに向けられる。
物言いたげな表情に、イザベラはまたやってしまったと頭を抱えたくなった。
隣にジョシュアがいるというのに、存在を忘れてユリウスと言い争いを始めてしまうなど、本当に失礼すぎる。
慌てて謝ろうとするも、ジョシュアが先に口を開く。
「先ほどから聞いていたのですが、彼女に対して少しキツくありませんか?」
普段のジョシュアから発せられないような低くて、厳しい口調だった。
まさか矛先がユリウスに向けられると思っておらず唖然とするイザベラだったが、すぐにユリウスに視線を移す。
ユリウスはユリウスでジョシュアに対し、氷みたいな目で冷やかな視線を送っている。
「わたしが、自分の助手にどう接していようが、 貴様には関係ないだろ」
明らかに気分を害したのか、こちらもだいぶ声が強張っている。
いつの間にか険悪な雰囲気になっている長身二人に板挟みになってしまったイザベラは二人の顔を交互に見る。
「関係ありませんが、あまりにも酷いので看過できませんでした」
「関係ないなら、首を突っ込むな。鬱陶しい」
これ以上、激化したら抑え込む自信がないので無理やりにでも止めようと、とりあえずユリウスの口を塞ごうとしたイザベラは手を上げようとする。
「しかも、先ほどからお前、お前と...、上司なら彼女の名前をご存知ではないのですか?」
しかし、ジョシュアのとんでもない発言を耳にして、イザベラの動きが一瞬止まってしまった。
確かにユリウスから名前を呼ばれたことはない。
そもそも他人に関心がないユリウスが人の名前を覚えているはずないのだ。
こんなユリウスに不利な質問をされたら、激怒するに違いないと慌ててユリウスを見上げると、案の定顔を顰めている。
力ずくでも抑え込もうと立ち上がろうとした瞬間、ユリウスの口から信じられない言葉が出て来た。
「ーーイザベラ」
聞き慣れたはずの自分の名前なのに、ユリウスの声で呼ばれると、少しだけ耳がこそばゆい。
だが、そんなことよりもイザベラはユリウスが自分の名前を覚えていたことにひどく感激してしまっていた。
「先生、すごいです!!わたしの、名前覚えていてくれてたんですね!!」
イザベラはユリウスをこれでもかと褒めちぎることにした。
「本当に、本当にすごいです!!ここ最近で、一番感動しています!!やればできる人だったんですね!!」
目を輝かせて、やたらと自分を称賛するイザベラにユリウスは気に食わないのか、苦虫を噛み潰したような顔を向けてくる。
「...お前は、わたしをなんだと思っているんだ」
「...魔術以外に興味がない天才、ですかね?」
常日頃からユリウスに対して抱いていた印象を正直に伝えると、納得いかなかったのか不服そうに眉をひそめる。
「だって、わたしが先生の下で働き始めてから、今まで名前で呼ばれたことなんて、なかったんですよ。とっくの昔に忘れ去られた、もしくは覚える気すらなかったって思っちゃうのも無理はないかと...」
「なら、お前はどうなんだ?」
紫水晶の瞳がイザベラを見据える。
「お前は、わたしの名を覚えているのか?」
何を言ってるのだろう、この人は。
覚えてるも何も、つい最近、隣のジョシュアにユリウスのことを紹介したばかりではないか。
まぁ、いいやとイザベラはそのことを軽く流し、自信ありげに胸を張る。
「もちろんです!先生の名前は、...名前は...」
自信満々に声を張り上げたイザベラだったが段々と小さくなっていく。
何故だかわからないが、普段ずっと先生と敬称で呼んでいたせいか、突然右隣の男性の名前をど忘れしてしまった。
彼の曽祖父である偉大なる魔術師、カイアス・フローベルの名前はすぐ出て来た。
なのに、すぐ隣にいる彼の名前が不思議なことにまったく出てこないのだ。
左隣のジョシュアもまさかイザベラのほうが名前を言えないとは思っておらず、目を瞬かせている。
右隣から凄まじい圧を感じ取り、イザベラはどうにかして思い出そうと、必死に頭を回転させる。
「待ってください!!カイアス・フローベルが先生の曽祖父様ということと、家名がフローベルということまでは覚えてるんです!!」
「...それで、名は?」
イザベラはそこで口を噤む。
声から察するに、かなりご立腹の様子なのがわかる。
「本当に、本当にさっきまで覚えていたんです!!なんとかフローベル、グロリ、は違う!!えっと、えっと、えっと...!!」
急に頭から消えてなくなったように思い出せず、焦りまくっていると右隣の男性の手がイザベラの頬に迫りくる気配を感じた。
いつもなら抵抗する姿勢を取るイザベラだったが、今回は完全に自分の落ち度なので、泣く泣くその手でつねられるであろう頬を差し出したのであった。
・
「それじゃあ、ジョシュア君。クッキー、ありがとうね。美味しくいただきます」
「いえ、それは嬉しいのですが...大丈夫ですか?」
イザベラは、赤くなった頬を涙目で撫でていた。
名前を忘れられたことに腹を立てたユリウスに、容赦なくつねられたのである。
そんな彼女に、ジョシュアは気遣うような眼差しを向けてくれた。
あの後、ジョシュアが止めに入ってくれなければ、間違いなくイザベラの頬は千切れてしまっていただろう。
痛みのおかげでイザベラはユリウスの名前を思い出したのだが、ユリウスは未だに機嫌が悪く、いつにも増して不貞腐れた様子でベンチに座っていた。
この後、騎士見習いとしての定例訓練があるジョシュアが業務に戻るので、お見送りしている。
「それでは、イザベラさん。また今度」
笑顔でイザベラに挨拶をすると、なんとジョシュアはユリウスに向き合った。
そして、ジョシュアには似合わない不敵な笑みを浮かべる。
「僕、負けるつもりはありませんから」
そう宣言すると、ジョシュアはユリウスに一礼をし、その場から去っていく。
いったい何のことかわからないイザベラは首を傾げながらユリウスを見る。
ユリウスもよくわかっていないのか不思議そうに去っていくジョシュアの背中を眺めている。
「...なんだ、あいつは。わたしが、あいつに体術で適うはずなかろうが」
確かにとユリウスの言葉に頷いたイザベラの脳内に一瞬にしてジョシュアにねじ伏せられるユリウスの姿を想像してしまった。
そのことに気付かれたのかユリウスが鋭い眼差しで睨んでくる。
ベンチから立ち上がったユリウスが近付いてくるので、また頬をつねられるかもしれないとイザベラは咄嗟に頬を手で庇う。
けれども、ユリウスはイザベラをじっと見下ろすだけである。
「...わたしの名を、呼んでみろ」
「へっ...?ユリウス、先生?」
「もう一度」
「ユリウス・フローベル先生!!」
訳がわからないまま名前を呼ぶと、先ほどまで険しかったユリウスの表情が僅かに緩む。
「次、忘れたらタダでは済まさないからな」
恐ろしい脅し文句を言い残し、ユリウスは王宮へと足を向ける。
名前を忘れたこと、そんなに根に持っているのかと恐怖で体が固まっていると、ユリウスが振り返ってくる。
「何をしている、早く戻るぞ。イザベラ」
「......えっ!?あっ、はい!!」
名前を呼ばれたことに驚いて、一瞬反応が遅れてしまったが、イザベラはユリウスを追いかける。
隣に並ぶと、ユリウスは再び歩き出す。
心なしか、歩幅をイザベラに合わせてくれているような気がしたが、気のせいかもしれないとイザベラもユリウスに合わせて歩き出す。
やっぱり名前を呼ばれただけなのに、妙にくすぐったいなとしきりに耳を触るイザベラだったが、どうやらくすぐったいのは耳ではないらしいと気付く。
それじゃあどこがくすぐったいのだろうと首を傾げるも、わからなくて少しだけ困惑するイザベラなのであった。




