第9話 蝶々の髪留め、お嫌いですか?
ブチッ
朝、いつものように仕事に行く準備をするために鏡の前で髪を後ろに束ねると、何かが切れる音が聞こえた。
束ねたはずの髪が垂れていくのを見て、髪留めが切れてしまったことに気付く。
代わりのものを探したが、見つからない。
そうしている間にも、家を出なければならない時間が刻一刻と迫ってくる。
焦り出したイザベラは何かないかと部屋中引っかき回していると、先日のデートでジョシュアから贈られた蝶々の形をかたどった髪留めが袋に入ったままの状態で出てきた。
もう時間もないし、これでもいいやと袋から取り出し、急いで髪を束ねる。
髪の乱れを整え、ローブを着て、イザベラは急ぎ足で部屋を出た。
・
ギリギリの時間だったが、なんとか定刻通りに研究室に来ることが出来たイザベラは自分の席に座ると、安堵の息を漏らす。
例のごとく、朝が弱いユリウスは気怠そうに分厚い魔術書を何冊も読み漁っている。
時折、欠伸をしては眠たそうに目を擦っているので、そろそろコーヒーを用意したほうがいいなとイザベラが立ち上がった瞬間、研究室の扉が勢いよく開いた。
「フローベルの小童!!このたわけが!!!」
ユリウスへの暴言とともに部屋に入ってきたのは、白髪が目立つ小柄な老人、医療魔術特化研究室の感染症対策専門の魔術師、サミュエルだった。
突然の来客にも関わらず、ユリウスは顔を上げずに、何事も起きていないかのように魔術書を読み進める。
そのことにますます腹を立てたのかサミュエルは物凄い剣幕でユリウスへと詰め寄る。
「先日依頼した魔術陣、これはいったいどういうことだ!!!」
持っていた書類を机に思いっきり叩きつけ、サミュエルは今にも噛みつきそうな勢いでユリウスに迫る。
そこでようやく顔を上げたユリウスは、煩わしそうにサミュエルを見上げる。
「なんだ、医術の枯れ木。貴様の相手をしている暇はない、帰れ」
「きーさーまー!!!」
酷すぎる暴言に、怒り心頭のサミュエルがユリウスの胸ぐらを掴み、その頭を激しく揺らす。
体力のないユリウスは抵抗する気すらないのか、されるがままだ。
普段は温厚なサミュエルが、ここまで怒るとは。
気になったイザベラは、机の上の書類を手に取った。
「こ、これは...」
その内容に、イザベラは目を疑った。
それは以前ユリウスに目を通すように依頼した最近、巷で少し問題になっている未知の感染症の治療法についてのものだった。
冒頭はイザベラがまとめ上げたもので、問題なのは最後のページ。
ユリウスの筆跡で大きく『興味ない』と書かれていた。
珍しくユリウス自ら提出しに行ったことに感心してしまい、内容の確認を怠ってしまったことをイザベラは深く後悔した。
「申し訳ありません、サミュエル先生。こちらの確認不足です」
申し訳なさそうにイザベラが目を伏せると、ユリウスの首を締め上げていたサミュエルが表情を緩め、振り返った。
「いや、イザベラ君に責はない。むしろ、此度の件についてまとめてくれて非常に助かっている。さすがと言うべきだ。問題なのは...」
胸ぐらを掴んでいた手を離し、サミュエルは片腕をユリウスの首に回す。
か細い腕のどこからそんな力が出ているのか、そのままユリウスを片腕だけで持ち上げた。
「この小童だ。イザベラ君には悪いが、少しの間借りていく」
「ふざけるな、この老害!!離せ!!」
「黙れ小童!!いつまでも手を焼かせおって...、それでは、用を済ませたら返す」
そして、暴れるユリウスを引きずりながら、サミュエルは部屋を出て行った。
やっぱり、先生は誰にとっても手のかかる人なのよね...。
少しの間、呆然とその場に立ち尽くしていたイザベラだったが、我に返るとすぐに業務に取り掛かった。
ユリウスがいると、何か問題を起こさないか心配で気が散ることが多いので、いない今のうちに片付けられるだけ片付けてしまおうと気合を入れる。
しかし、ユリウスがサミュエルに連れて行かれて数分後、困った顔をしたサミュエルの助手の魔術師がイザベラを訪ねてきたのだった。
話を聞こうとしたが、見てもらったほうが早いとサミュエルの研究室まで連れて行かれる。
そこで目の当たりにしたのは、散乱した部屋の中で大乱闘を繰り広げているユリウスとサミュエルの姿だった。
「いい加減大人しく言うことを聞け!!いつまでも往生際が悪いやつめ!!」
「うるさい、無駄に歳を重ねただけの老いぼれが。偉そうに指図するな」
「貴様は図体だけデカくなった小童だろうが!!」
体格差と年齢差的にユリウスが圧倒的に優勢だと思われるが、ユリウスのほうが高齢のサミュエルに羽交い締めされて、動きを封じ込められていた。
いい歳した大の大人が子供のように大喧嘩する姿は見るに堪えず、イザベラはサミュエルの助手へと視線を逸らす。
「先生...、サミュエル先生が...」
信じられないものでも見るかのようにサミュエルの助手は口元に手を当て、目を見開かせている。
このままでは埒が明かない。
そこで、イザベラがユリウスを、サミュエルの助手がサミュエルを、それぞれ説得することにした。
何を言っても、どんなに煽てても、称賛しても、唇を尖らせ、そっぽ向かれる。
サミュエルの言葉通り、体ばかり大きくなってしまった子供である。
いや、子供のほうがまだ聞き分けがいいので、言葉の通じない赤ちゃんに近い。
もう本当にどうすればいいかわからず途方に暮れたイザベラはついムキになってしまい、自分でも訳のわからないことを口走ってしまう。
「このままへそ曲げ続けるんだったら、これから先生のコーヒー、全部熱々のまま出しますからね!!火傷しても、知らないんですから!!」
しかし、この言葉が意外と効いたらしく、今まで無反応だったユリウスが眉間に皺を寄せる。
不快そうに顔を顰め、腕を組み、暫く考え込む。
そして、ユリウスはのろのろと立ち上がり、近くの執務机の椅子に座った。
サミュエルとその助手は呆然とそんなユリウスの行動を見ていたが、イザベラはすぐさま紙と万年筆を彼の前に置いた。
「先生、一応感染症についてまとめた資料を...」
「必要ない。全て記憶している」
万年筆を手に取り、ユリウスは目にも留まらぬ速さで数々の魔術記号を描いていく。
「...あの、作業されている間、お茶でも飲まれますか?」
ようやく状況が見えてきたサミュエルの助手にお茶を勧められるも、イザベラは首を振る。
「いえ、たぶんお茶を淹れている間に全部終わると思うので」
「えっ、でも新しい魔術陣を作成されてるんですよね...?どんなに早くても、1日以上は掛かるはずですよ?しかも、今回依頼したのは治療系統の魔術陣なので、相当入り組んだ構造じゃないと機能しないはず...」
サミュエルの助手の言う通り、普通の魔術師が新たな魔術陣を編み出すには、かなりの労力と時間を費やす必要がある。
しかし、それは普通の魔術師の場合であって、ユリウスはその枠には当てはまらない。
「ーー出来たぞ」
一息つく間もなく、ユリウスが机に万年筆を置いた。
サミュエルがすぐさま机の上の紙束を取り上げ、視線を落とす。
静かに紙束に書かれている内容を全て確認し、小さく息を漏らすと、サミュエルは彼の助手に振り返る。
「すぐに、治験の準備を」
「えっ!?あっ、はい!!」
目の前で起こったことが理解できていないまま、サミュエルの助手はサミュエルの言葉に従うため、慌ただしく部屋から出て行った。
「まったく...、時間の無駄だった。帰るぞ」
椅子から立ち上がったユリウスは、イザベラに声をかけ、何事もなかったかのように部屋を出ようとしていた。
「待て、フローベルの小童」
サミュエルが呼び止めるも、ユリウスが足を止めないため、イザベラが服の裾を掴む。
仕方なく止まるも、サミュエルに背を向けたままである。
「助かった。礼を言う」
ユリウスへ礼を示すようにサミュエルは頭を垂れる。
だが、ユリウスは興味なさそうに扉へ向かい、そのまま研究室を出て行った。
イザベラはサミュエルに一礼し、ユリウスの後を追いかけた。
「先生!待ってください、先生!!」
先に行くユリウスを呼び止めようとイザベラは声を上げるも、まったく足を止める気配がない。
このまま真っ直ぐ、自身の研究室に戻ってくれればいいのだが、不安なのでイザベラはユリウスに追いつこうと早足になる。
「イザベラさーーん」
すると、どこからともなく、イザベラを呼ぶ声が聞こえ、思わず足を止める。
辺りを見渡すと、王宮へと続く廊下の方から体格がいい青年が、手を振りながら、輝かしい笑顔で近付いてきた。
「ジョシュア君!」
「お久しぶりです!会えて、嬉しいです!!」
ものすごくいい笑顔を向けられ、あまりの眩しさにイザベラは毎度のことながら目を細める。
ジョシュアと会うのはあの日のデート以来である。
「久しぶりだね、ジョシュア君」
「はい!」
少し話す程度なら、すぐにユリウスにも追いつけるだろうと、ジョシュアに向き直る。
すると、ジョシュアの視線がイザベラにではなく、その隣に向けられる。
何かあるのかと隣を見ると、いつの間にか先に行っていたはずのユリウスがそこにいて、イザベラは思わず肩を揺らす。
ユリウスに仏頂面で睨まれているからなのか、ジョシュアは困惑気味に琥珀色の瞳を瞬かせる。
そういえばこの二人の初対面時、ユリウスは気絶して意識を失っていたので、ある意味、今が初の顔合わせになる。
「先生、この方がジョシュア君です。騎士見習いで、研究のお手伝いをしていただいています」
一応無関係ではないので、イザベラはお互いをお互いに紹介することにした。
「ジョシュア君、こちらがユリウス・フローベル先生です。わたしの上司です」
困惑顔だったジョシュアだったが、イザベラから紹介を受けると、すぐに表情を戻す。
「はじめまして、フローベル先生。ジョシュアと申します」
イザベラに向けるものより少し抑えめの笑顔をユリウスに向け、握手を求めるように右手を差し出す。
そんな礼儀正しいジョシュアに対し、ユリウスは仏頂面のまま彼を睨んでいた。
握手に応じる気はなさそうだ。
「ご、ごめんねジョシュア君。先生、悪気があるってわけじゃなくて、ただ常識がなくて...」
いったいどんな言い訳なんだと内心思いつつ、イザベラはユリウスの不躾な態度のフォローを入れる。
「いえ、大丈夫です」
ジョシュアは特に気にすることなく、手を引っ込めると、再度ユリウスに笑顔を向ける。
「以後、お見知りおきを」
その笑顔に、少しだけ含みのある圧を感じたものの、ユリウスは興味なさげに視線を逸らした。
ジョシュアの視線がイザベラに戻る。
すると、何かを見つけたのか、今まで見たことないぐらいの最上級の笑顔をぶつけてきた。
「イザベラさん!!その髪留め、付けてくれてるんですね!!」
眩しさで目が潰れそうになるも、ジョシュアの一言で何に反応したのかわかった。
どうやら、何気なくつけたジョシュアからの贈り物の髪留めに気付いたらしい。
「嬉しいです!!とても似合っています!!」
尋常じゃないぐらいに褒めてくれるので、他に髪留めがなく、仕方なく使っていることに少し罪悪感を覚えた。
色んな角度から嬉しそうに髪留めを見てくるので、少し気恥ずかしくもある。
「あ、ありがとう...」
でも、褒められて悪い気はしなかったので、戸惑いながらもイザベラは小さく微笑んだ。
そんなイザベラにジョシュアの笑顔はますます輝きを増していったのである。
しかし、それと同時に隣にいるユリウスからとんでもない圧が出ていることにイザベラは気が付いた。
気付かれぬように横目で確認すると、鋭い眼差しで見下ろされている。
なにか気に障ることがあったのだろうかと考えてみるも、思い当たるようなことが何もない。
真正面からの輝きと、隣の不穏さに板挟みになり、なんとも居心地の悪い気分になったイザベラなのであった。
・
その後、ジョシュアと別れてからもユリウスの機嫌が直ることはなかった。
サミュエルの依頼を無理やりやらされたことを、そんなに根に持っているのだろうか。
しかし、ユリウスは一度終わったものに執着する質ではないので、サミュエルの研究室から出た時点で気にも留めてはいないだろう。
そうなると本当に原因がわからない。
イザベラは書類の山の隙間からユリウスを観察する。
不機嫌だがイザベラが淹れたコーヒーは飲んでるし、無愛想だが大人しく席に座ってるので、今のところ実害はない。
少しだけ頭を悩ませるも、時間が経てばきっといつもの調子に戻るだろうとイザベラは気にすることをやめた。
しかし、そんなイザベラの予想は大きく外れた。
翌朝、研究室に入ると、ユリウスはいつも通り眠そうに作業していた。
けれど、イザベラがコーヒーを置くために近付いた途端、鋭い瞳で凝視してきた。
いったい、なんなのだ。
直接聞いても、すぐに視線を逸らされて、なんでもない、と不貞腐れたように返事をされる。
それで背中を向けた途端に、ものすごい視線を感じるのだからなんでもないわけがない。
しかし、それ以上言及すると殻に閉じこもった貝のように何に対しても反応しなくなる恐れがあったため、イザベラは放置することにした。
それからのユリウスは機嫌が悪いのもあってなのか、何をするのにも苛ついており、作業の進みがいつもより遅い気がする。
そんなある日、イザベラが用事を終え、研究室に戻ると、部屋の中はもぬけの殻だった。
今日はどこに行ったんだろうと、持っていた書類を机に置き、ユリウスを探しに行こうとドアノブに手をかけようとした瞬間、扉が思いっきり開かれる。
驚いて顔を上げると、ユリウスが仏頂面のまま部屋に入ってきた。
自分で帰ってくるなんて珍しいと軽く感動していると、ユリウスに軽く睨まれる。
そして、ユリウスは持っていたトランクケースをイザベラの机に叩きつけ、中を開けた。
すると、そこにはたくさんの値札付きの髪留めや髪飾りがケースいっぱいに並んでいた。
「その中から好きなものを選べ」
「えっ、なんでですか...?」
突拍子もないことを言われ、見上げると、ユリウスが腹立たしそうに舌打ちをする。
「その、髪留めが非常に鬱陶しい」
「髪留め...?」
何のことかと、イザベラは自分の後頭部に手を添える。
いつも使っていた髪留めが千切れた日から、ジョシュアから貰った蝶々の形をした髪留めをイザベラは身に付けていた。
他に代わりの髪留めもないし、新しく買うお金も勿体ないので丁度いいやと普段使いしていたのだが、まさか鬱陶しいと言われるとは思っていなかった。
瞳を瞬かせ、ユリウスを眺めていると、彼はますます苛立ったのか、続けざまに声を張り上げる。
「だから、その髪留めは気が散る!!そのせいで作業効率が落ちるので、付けるな!!」
「...は?」
なんて理不尽な物言いだろう。
まさか最近不機嫌だったのも、この髪留めのせいだと言うのだろうか。
意味がわからない。
しかし、あまりにも凄んでくるため、イザベラはトランクケースから渋々一つ選ぶことにした。
本当にどれでもよかったため、真っ先に視界に入ってきた紫色の花の髪留めを手に取る。
鋭い視線で、今すぐにでも付け替えろと訴えてくるため、イザベラは髪を解き、選んだ髪留めでもう一度束ねた。
「...これで、満足でしょうか?」
「.........」
ユリウスは何も言葉を発しなかったが、暫くイザベラの後頭部を凝視すると、何事もなかったかのように自分の席へと戻っていく。
「先生、これ!忘れてますよ!」
そのまま机の上に放置されたトランクケースを持ち上げて見せるも、もうすでにどうでもよくなったのかユリウスは一瞥もくれなかった。
「必要ない。好きにしろ」
好きにしろって言われても、こんな大量の髪留めと髪飾りをどうすればいいのだろうか。
とりあえず、一生新しいものを買わなくては済みそうだが、それでも多すぎる。
それにしても、ユリウスは何故この髪留めに機嫌を損ねていたのだろうかと、イザベラは蝶々の髪留めに視線を落とす。
虫が苦手だったのだろうか。しかし、この髪留めがそこまで精巧に蝶の形を模しているわけではない。
......もしかして、蝶々が飛ぶ様子が気になってしまっていた、とか。
ユリウスは確かに中身は未発達児とそこまで変わらない。
でも、さすがにそんなことで機嫌が悪くなるわけ.......。
しかし、まさか、いや、でも...
完全にその可能性を否定できないイザベラは拳を小さく握りしめ、震わせる。
なんか少しだけ機嫌がよくなっているユリウスとは裏腹に、どうか違う理由であってくれと願うイザベラは悶々とするのであった。




