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ふたりの散歩道  作者: 須藤
Season 1 埼玉編
2/6

第二話:「川越、時の鐘と風鈴の音色」

 東松山への旅から、ちょうど一ヶ月ほどが過ぎた、七月上旬の木曜日。

 定時を少し過ぎた頃、結衣ゆいは退社準備をしながら、今月の誤差なしで締まった経費データをひとつ確認した。入社当初は些細(ささい)なミスのたびに深呼吸していたが、最近はミスそのものが減ってきた気がする。橋本(はしもと)さんに「最近落ち着いてきたね」と言ってもらえた時は、正直ほっとした。

 東松山の旅から一ヶ月。職場で(りん)さんとすれ違うたびに、あの時隣で感じた熱や、風の匂いがふっと蘇る。目が合って軽く会釈えしゃくするだけの関係なのに、以前よりずっと、その一瞬が大切に感じられていた。

「お疲れさま、高柳たかやなぎさん」

 階段のあたりから声がして顔を上げると、凛さんが三階から上がってくるところだった。伝票の束をこちらに差し出す。

「お疲れさまです」

「先月の備品の件、ありがとう。処理が早くて助かった」

「いえ、当然のことなので」

 結衣は笑顔で受け取った。凛さんがすぐに戻りかけたところで、ふと口を開いた。

「あの……先輩」

 凛さんが振り返る。

「先月、東松山に一人で行ってみました。やきとり、やっぱり美味しかったです」

 凛さんは一瞬だけ目を丸くして、それからゆっくりと微笑んだ。

「そうなの。行けたんだ」

「はい。先輩のおかげで、少し勇気が出て」

「よかった」

 たったそれだけの言葉なのに、凛さんの「よかった」には、なんというか、重みがある。

「来週の土曜日、空いてる?」

「え、はい!」

「今度は私が案内したいところがあって。川越、行ったことある?」

「ないです!」

「じゃあ、行こうか」

 凛さんは特に大げさにもなく、ごく自然に言った。今度は自分から誘ってくれた——そのことが、結衣の胸の中でずっとあたたかく残った。


 約束の土曜日。梅雨つゆの合間の、蒸し暑いけれど空は青い一日だった。

 池袋いけぶくろ駅の東武東上線とうぶとうじょうせんのホームで待っていると、凛さんがこちらに気づいて手を振った。

 今日の凛さんは、空気をはらむようなスカイブルーのノースリーブシャツに、黒のテーパードパンツを合わせていた。腕にはシンプルなシルバーの時計が光り、肩にかけたネイビーのキャンバストートが軽やかだ。

 対する結衣は、七月の強い日差しを意識して、アプリコット色のコットンワンピースを選んでいた。手には丸いカゴバッグを持ち、頭には白いリボンの付いた麦わら帽子を被っている。

「おはようございます!」

「おはよう。……高柳さん。今日は一段と夏らしいね。そのワンピース、色がとても綺麗」

「ありがとうございます! 先輩も、そのブルー、すごくお似合いです」

「ありがと。……さあ、急行がちょうど来るから、乗ってしまおう」

 川越まで東武東上線の急行で約三十分。窓側に並んで座ると、結衣はスマホを開いた。

「川越って、江戸時代に栄えた城下町なんですよね! 『小江戸こえど』って呼ばれていて、時の鐘とか蔵造りの街並みが有名みたいです」

「高柳さんは本当に下調べが丁寧ね」

 凛さんはそう言いながら、バッグから冷たい麦茶のペットボトルを取り出して、そっと結衣の膝の上に置いた。

「あ……ありがとうございます。私もマイボトルにお茶を持ってきたんですけど」

「いいの。こっちはミネラルも入ってるから、熱中症対策。……結衣、今日はほうじ茶?」

「はい! さすが、よく分かりましたね」

 さらりとした、でも自分をよく見てくれているのが伝わる気遣い。それが凛さんらしくて、結衣は少し照れながら受け取った。自分も同じように、凛さんのブラックコーヒー好きを覚えていることが、なんだか誇らしく思えた。


 川越駅を出て、まず二人が向かったのは「時の鐘」だった。蔵造りの街並みに入ると空気が変わる。観光客と地元の人が入り混じり、石畳の路地には懐かしいような温かさがある。

 木造の重厚な鐘楼しょうろうを前に、凛さんが目を細めた。

「この木組み、すごいね。江戸時代から変わってないんでしょ? こんなに複雑な構造がそのまま残ってるのって、設計の完成度が高い証拠だと思う」

「鐘の音も聞きたいです! えっと……一日に四回、六時と十二時と十五時と十八時に鳴るみたいですよ」

「じゃあ、夕方に聞けるかな」

 凛さんは少し楽しそうに言った。


 蔵造りの街並みは、どこを切り取っても絵になった。黒漆喰の重厚な外壁が軒を連ねる光景に、結衣はただただ見入る。

「この色の組み合わせ、見て。瓦の灰色、漆喰の白、木材の黒。三色だけでここまで格調のある景色になるの、すごいと思わない?」

「言われてみると……確かに」

「色数を絞るって、デザインでいちばん難しいことのひとつなんだよね。この街の人たちは何百年もかけてそれをやってきた」

 結衣は凛さんの言葉に引き込まれながら、改めて街並みを眺めた。さっきまでただの「古い建物」だったものが、急に別の顔を持ち始める気がした。

「一人旅も好きだけど、高柳さんの視点が入ると、今まで見落としていた発見があって新鮮だわ。あなたの隣を歩いていると、街の色が一段と鮮やかに見える気がする」

 その言葉が、さっきの絵のような景色よりもずっと眩しく感じられて、結衣は少しだけ早足になった。


 街並みを歩いていくと、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。「菓子屋かしや横丁よこちょう」だった。駄菓子だがし屋が軒を連ね、色とりどりのお菓子が並んでいる。

「懐かしい! きなこ棒だ! 先輩も食べますか?」

「じゃあもらおうかな」

 結衣はきなこ棒を一本手に取り、凛さんに差し出した。凛さんがそれを受け取る時、二人の指がほんの一瞬だけ触れた。

 結衣は気にしていないふりをしながら、内心少しだけ動揺した。

「先輩って、甘いもの好きですか?」

「和菓子は好きだよ。洋菓子はあまり食べないけど」

「意外です。コーヒーはブラックで飲むタイプのイメージでした」

「なにそれ」

 凛さんが珍しく笑った。こんな風に楽しそうに笑ったのを見たのは、初めてかもしれない。


 その後、本川越駅の前からバスに乗り、川越氷川神社のバス停で下車した。新河岸川沿いを少し歩くと、高さ十五メートルもあるという巨大な朱色の鳥居が見えてくる。

「あ、先輩、知ってますか? ここ、朝早くに来ると『縁結び玉』っていうお守りがもらえるんですよ」

 結衣がスマホの画面を見せながら言うと、凛が「ああ、聞いたことある」と頷いた。

「身を清めた巫女さんが拾い集めた境内の小石を、一つずつ大切にお祓いして包んだもの、なんですって。一日二十体限定で、早朝から並ぶ人もいるくらい人気なんですよ」

 事前に予習しておいて良かった。凛さんの興味深そうに聞く表情をみて思った。

「今日はもう夕方だから無理ですけど、いつか見てみたいですよね」

「そうね。……また今度、ね」

 その「また今度」という言葉が、小さく結衣の胸を締め付けた。

 二人が境内に入った瞬間、風が吹いた。

 チリン、と一つ鳴った。それからもう一つ、またもう一つ。見上げると、頭上に無数の風鈴が吊るされていて、風が来るたびに波のように音が広がった。

「わあ……」

 結衣は思わず立ち止まった。声が出なかった。

 凛さんも黙って、その音を聞いていた。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。風鈴の音が途切れ途切れに続いて、それ以外は静かだった。不思議と、沈黙が重くなかった。

「……心地いい」

 凛さんがそっとつぶやいた。

「はい」

 結衣も小さく答えた。

 気づくと、凛さんの肩と自分の肩が、ごく自然に隣り合っていた。少し迷ったけれど、結衣はそのままにした。

「先輩、なんだかいつもよりリラックスしてるように見えます」

「そうかな」

「なんだか、表情が柔らかい気がして」

「高柳さんといると、自然と肩の力が抜けるのかもしれない」

 凛さんは前を向いたまま、静かにそう言った。

「……ゆ」

 凛さんが何かを言いかけてやめた。そんな気がした。

 凛さんはすぐに視線を落とし、強く唇を噛んだ。それから、先ほどまでの穏やかな空気とは一変して、少しだけ低い、自分を律するような声で言い直した。

「行きましょうか、高柳さん。遅くなるといけないし」

 凛さんは特に理由を説明することもなく、少し早足で歩き出した。

 結衣はその背中を追いかけながら、凛さんが飲み込んだ言葉が何だったのか、そしてなぜ彼女の背中がこんなにも孤独に見えるのかを、ずっと考えていた。一瞬だけ通じ合ったと思った心が、また少しだけ遠くに離れてしまったような、言いようのない切なさが胸に広がった。

 結衣は返せる言葉が見つからなくて、ただうなずいた。それで十分な気がした。


 縁結び玉は、残っていなかった。

「次は、朝早く来てみる?」と凛さんが言った。

「はい。その時も、先輩と一緒に来たいです」

 結衣は正直に言った。凛さんは「そうしよう」と、特に特別な様子もなく答えた。


 蔵造りの街並みに戻ったころ、低く重い音が街に響き渡った。

「あ、六時の鐘ですね!」

 結衣が振り返ると、凛さんもその場に立ち止まって、静かに耳を澄ませていた。鐘の余韻よいんがゆっくりと消えていく。

「何百年も、同じ音で時間を知らせてきたんだね」

「変わらないものって、なんだか安心しますよね」

 凛さんは少し考えてから、「そうかも」とつぶやいた。


 その後、事前に調べておいた老舗のうなぎ屋に入った。暖簾のれんをくぐると、醤油と甘いタレの香りがふわりと広がる。通された座敷は使い込まれた木の温もりがあり、結衣は少し背筋を伸ばしつつも、ほっと一息ついた。

「川越のうなぎは、お醤油の香ばしさがたまらないですね!」

「うん、美味しい。このタレの味、どこか懐かしい気がする」

 凛は丁寧にうなじゅうを頬張り、小さく目を細めた。

「……さっきの時の鐘、ずっと考えてたんだけど」

「鐘、ですか?」

「ええ。何百年も変わらない音で鳴り続けるって、すごいことだなって。私たちの仕事、特にデザインの世界は、常に『新しいもの』を求められるじゃない?」

 凛は箸を置き、お茶を一口含んだ。

「昨日いいと思ったものが、今日はもう古くなっているかもしれない。そんな変化の激しい世界にいるせいか、ああいう普遍的ふへんてきなものを見ると、少しだけ羨ましくなるの」

 その言葉は、初めて聞くデザイナーとしての悩み、あるいは、凛の核にある寂しさのようなものに触れた気がした。

「でも、私は今の凛さんのデザイン、大好きですよ。新しくても、どこか凛さんらしい丁寧さと、優しさが伝わってくる気がして」

 結衣は自分の言葉が少し恥ずかしくて、慌ててうなぎを口に運んだ。

 凛は一瞬、驚いたように手を止めたが、すぐにふっと表情を和らげた。

「……ありがとう。高柳さんにそう言ってもらえると、なんだか救われる気がする」

 凛は少しだけ間を置いて、続けた。

「今日、誘ってよかった。一人で来たら、きっとこんなに深くこの街のことを考えられなかったと思う」

「私も、誘ってもらえて本当に嬉しかったです」

 お互いに少し照れながら、それでも二人の間に流れる空気は、さっきの風鈴の音色みたいに心地よく澄んでいた。


 帰りの東武東上線は、夕焼けの光の中を走った。

 今日は前回と違って、凛さんは眠らなかった。窓の外をぼんやり眺めながら、穏やかに微笑んでいる。その横顔が、いつもの職場の凛さんより、ずっと柔らかく見えた。

「先輩、今日はありがとうございました。川越、素敵な街でした」

「私も楽しかった。高柳さんと来られてよかった」

 凛さんはそう言って、また窓の外に目を戻した。

 結衣も視線を窓に向けた。空との境が夕焼けでオレンジ色に広がっている。上空は深い青に変わり始めていた。

 しばらくして、隣からなんとなく視線を感じた。

 ちらりと横を向くと、凛さんが自分をじっと見つめていた。目が合うと、凛さんは小さく目を見開いてから、すぐに窓の外に視線を戻した。表情はいつものように涼しげだ。でも、その耳たぶが夕焼けのせいか、ほんの少し赤くなっているように見えた。

(……なんで、あんな風に見てたんだろう)

 結衣は窓ガラスに映る自分の顔を確認してみたが、特に変なものは付いていない。ただ、凛さんが飲み込んだあの「音」と、今の視線が、胸の奥をずっとくすぐり続けていた。



 池袋で乗り換えて、越谷レイクタウン駅への武蔵野線に乗り込む。車内はがらんとしていて、外が少しずつ暗くなっていく。

 今日一日を、順番に思い返した。風鈴の音、蔵造りの街の静けさ、隣に並んでいた凛さんの肩。そして、あの視線。

 (また行けたらいいな)

 そう思いながら、夜の景色へ流れていく窓の外をぼんやりと眺めた。



 つづく


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