第一話:「東松山、はじまりの夕焼け」
五月も終わりに差しかかった平日の朝。越谷レイクタウン駅のホームには、通勤客の波がゆるやかに満ちていた。
高柳結衣は武蔵野線の待ち時間を使って、スマホで昨日のミスの原因をもう一度確認していた。経費精算のデータが重複していたと、福田部長に「確認はしたの?」と言われたのが昨日のこと。その言葉の重さが、まだ胸の奥に残っている。南浦和で京浜東北線に乗り換え、池袋まで約一時間。この長い通勤時間が、毎朝のひそかな予習時間になっていた。
池袋駅の西口を出て、路地を縫うように歩いて八分。株式会社アトリエ・コンパスは、豊島区の細い通りに建つ、五階建てのビルの三・四階を借りている。
四階の経理フロアに着くと、橋本由紀さんがすでにデスクに座っていた。
「おはよう、結衣ちゃん。今日は随分早いね」
「はい。少し早めに来ました」
笑顔で返しながら荷物を下ろす。窓から三階との間の吹き抜けが少し見えて、結衣はつい階段の踊り場に目を向ける。デザイン部の、あの人が通るのが見えることがある。それが最近、密かな楽しみになっていた。
午後、結衣はモニターの前で三度目の見直しをしていた。エアコンが効いていても、手のひらが汗ばむ。どこかで重複させてしまったはずだ。
「高柳さん、これちょっといい? 私が先月出した分、何か不備あった?」
声に振り向くと、あの人――デザイン部の水野凛さんが精算書の束を持って立っていた。白いシャツをさらりと羽織り、涼しげな目元をまっすぐ向けてくる。
「いえ……私の処理が悪くて、データが重複してしまったみたいで。今、直し方を調べているんです」
「そっか。ごめんね、こっちで出す時にもっと確認しておけば良かった。慣れないうちは、誰でもこういうこと起きるから」
淡々と、でも丁寧に。凛さんは軽く頷くと、すぐに三階へ戻っていった。
その背中を目で追いながら、結衣はそっと息を吐いた。
(怒らないんだ、この人は)
福田部長の「確認はしたの?」とのあまりの違いに、胸のどこかが妙に泡立つような気がした。
昼休みに橋本さんから「ランチ行こ」と誘われたが、今日は気持ちを整えたくて、一人でいることにした。結衣はスーパーで買ったおにぎりを手に、四階の窓際の空きスペースに腰かけた。
窓の外をぼんやり見ていると、通り沿いのカフェのテラス席に人影が見えた。白いシャツ。おそらくコーヒーであろう飲み物と雑誌を広げ、一人で座っている。
凛さんだ。
一人が好きなのかな、と結衣は思った。自分も一人でいることが多いけれど、あの人の一人は、なんというか、堂々としている気がする。
それから数日が過ぎた。
廊下でばったり会えば「おはよう」と言ってくれる。エレベーターで乗り合わせれば、一言二言の会話が続く。それだけのことなのに、なんでだろう、凛さんのことを以前より少しだけ近くに感じるようになっていた。
ある昼休み、休憩スペースの給湯器でマイボトルにお湯を注いでいた。持参したティーバッグでお茶を出し、そこに少しだけ水を足して、好みの温度に調節する。
ふわりとほうじ茶の香りが漂った時、隣に凛さんが来た。ガコン、という小気味良い音と共に、自販機からブラックの缶コーヒーが落ちてくる。
「また一人でお昼?」
「はい……橋本さんはもう出かけてて」
凛さんは手慣れた手つきでプルタブを引き、一口含んでから続けた。
「高柳さんって、旅行、好き?」
脈絡のない問いかけに、結衣は少し面食らった。
「……好きです。というか、行ったことがあんまりなくて。一人で遠くに行く勇気がなくて」
「そうなんだ」
凛さんは小さく笑った。
「一人旅って、自分の心をリセットするのにいいんだよね。誰にも気を遣わなくていいし、自分のペースで歩けるから」
「先輩は、よく行くんですか?」
「うん。この前、東松山に行ってきたんだ。焼きとりが有名で、なかなか良かったよ」
凛さんの言葉はいつも静かで、押しつけがましいところがない。なのに、東松山という言葉が、妙に頭から離れなかった。
「東松山……」
結衣が小さく復唱すると、凛さんは「興味ある?」と優しく微笑んだ。
翌日の昼休み、結衣はスマホで「東松山 焼きとり」と検索していた。箭弓稲荷神社とやきとりの街。調べているうちに、気づけば三十分が経っていた。
午後の休憩中、廊下ですれ違った時に結衣は思い切って声をかけた。
「あの、凛さん。昨日おっしゃってた東松山の神社、調べてみました。花手水、すごく綺麗ですね」
凛さんは足を止め、少し意外そうに、でも嬉しそうに目を細めた。
「あ、調べたんだ。うん、今の時期は特に綺麗だよ。……高柳さん、そんなに興味あるの?」
「はい。写真を見てたら、なんだか実際に行ってみたくなっちゃって」
凛さんは「そっか」とだけ言って、その場は別れた。
さらに数日後の夕方、退社準備をしていると、凛さんが声をかけてきた。
「来週の土曜日、空いてる?」
「はい、空いてますけど」
「じゃあ、東松山。一緒に行く?」
結衣は一瞬、自分の耳を疑った。
「私も……連れて行ってもらえるんですか?」
「うん。高柳さんが興味持ってくれたから、案内しようかなと思って」
凛さんは照れるでも、過剰に微笑むでもなく、ただ静かにそう言った。
その言葉が、夕焼けみたいにじわりと、胸の奥に染み込んでいった。
週末、土曜日の朝。越谷レイクタウン駅の改札を抜けると、朝の空気はもう夏の匂いがした。武蔵野線に乗り、南浦和で京浜東北線に乗り換え、池袋へ。ホームで待っていると、川口から乗ってきたという凛さんが現れた。
「おはようございます!」
元気に手を挙げた結衣の姿を認めて、凛さんは少し驚いたように、それから優しく目を細めた。
「おはよう、高柳さん。今日も暑くなりそうね」
オフィスで見かける紺色のパンツスーツ姿とは打って変わって、今日の凛さんはネイビーのリネンシャツに、ライトグレーの細身のパンツを合わせていた。肩にかけた焦げ茶のレザートートが、いかにも旅慣れたデザイナーという風情で格好いい。
対する結衣は、自分なりに「動きやすさ」と「旅の特別感」を両立させたつもりだった。パステルイエローのブラウスに、ふわっと広がる白のフレアスカート。背中には、小さな白いリュックが揺れている。
「……その恰好、似合ってるわね。黄色、高柳さんに合ってる」
「えっ、本当ですか? ありがとうございます!」
憧れの先輩に褒められて、結衣の心は早くも舞い上がった。
凛さんは涼しげな笑顔で、自然に隣に並んだ。東武東上線の急行に乗り込むと、窓の外の景色が少しずつ緑を増していく。
「えっと……箭弓稲荷神社は東松山駅から徒歩五分で、野球の神様として有名なんですって!」
スマホの画面を見せながら読み上げると、凛さんは少し面白そうに眺めていた。
「高柳さんって下調べが丁寧なのね」
「えへへ……心配性なので、ついつい調べちゃうんです」
東松山駅を降りて徒歩数分。鮮やかな朱色の鳥居が、二人の前に現れた。
「わあ、ここが箭弓稲荷神社……!」
野球のユニフォームを着た少年たちが次々と鳥居をくぐっていく。境内には活気と熱気が満ちていた。
「すごい熱気ね。前は夕方にふらっと来たから、社務所も閉まってて。参拝もせずに駅前でやきとりだけ食べて帰っちゃったの。高柳さんが下調べしてくれたおかげで、今日はちゃんと見られそう」
手水舎へ向かうと、結衣は思わず足を止めた。
「わあ、見てください、先輩!」
清らかな水面に、色とりどりの花がびっしりと浮かべられていた。初夏の日差しがキラキラと照らして、まるで絵画のようだった。
「すごい……! まるで夢みたいです……!」
「ほんとだ。この色の組み合わせ、大胆なのにすごくバランスが取れてる」
凛さんはデザイナーらしい目で、花の構図をじっくりと眺めている。その横顔を、結衣はそっと見た。
「こうやって左で柄杓を持って……」と調べた作法を凛さんに教えると、子供のように目を輝かせて聞いてくれた。凛さんって知的好奇心が旺盛なんだなって思った。
本殿で手を合わせる時、結衣はこっそりと祈った。
(ミスが減らせますように。……でもミスのお陰で凛さんと近づけたんだから……、悪いことじゃないのかな?)
参拝の後、凛さんに「何を祈ったんですか?」と聞いてみると、少し笑って「秘密」と言った。それだけで、なんだか嬉しかった。
バット型の絵馬にはしゃぎ、ヌートバー選手のマンホールで立ち止まりながら、二人は神社を後にした。
商店街から一本入った路地の、地元の人で賑わう小さな店。引き戸を開けると、香ばしい味噌だれの匂いが鼻腔をくすぐった。焼き台の炭火がパチパチと音を立て、大将が振り返る。
「やきとり、二本ずつください!」
熱々が届くと、結衣は一口かじって目を丸くした。
「熱い! でも、美味しい……!」
「うん。この味噌だれ、絶妙な甘辛さだね」
凛さんが満足そうに言うのを見て、結衣は自分のことのように嬉しくなった。
「高柳さんはなんで経理にしたの?」
不意に聞かれて、少し迷ってから答えた。
「数字を扱うのが好きで……でも、向いてるかどうか、まだわからなくて」
「そっか。でも、下調べとか情報整理、ちゃんとできてるじゃない。経理の仕事って、そういうことの積み重ねでしょ」
「……そうかもしれないです」
なんでもない言い方だったけれど、その言葉がすとんと胸に落ちた。
帰りの東武東上線は、オレンジ色に染まる夕焼けの中を走っていた。二人並んで座り、話すことが止んで、静かな時間が流れていた。
「今日は、本当に楽しかったです。先輩と来られて良かった」
「私も。また来たいな」
凛さんはそう言って、窓の外に目を戻した。
いつの間にか、揺れる電車の中で凛さんの肩が、ほんのわずかに結衣の肩に触れていた。疲れているのか、細かい揺れに合わせて少しずつ寄ってきている。
結衣は息を止めた。
動けない。動いたら、この感触がなくなってしまいそうで。
じっと窓の外を見つめながら、心臓がうるさいくらい鳴っていた。
不意に、寄りかかっていた凛さんの身体がハッと跳ねるように離れた。池袋に着く直前、乗り換えの案内放送が流れる。
「……っ、ごめんなさい。高柳さん」
凛さんは少し驚いたような、それ以上にひどく焦ったような表情をして、慌てて髪を整え、姿勢を正した。その表情は、先ほどまでの穏やかなものとは一転して、いつもの「クールな先輩」の仮面を被り直したようだった。
「着いたね。……それじゃ、また」
凛さんはちらりと結衣の顔を見た。少し間の間の後、そう言い残すと足早にホームへと降りていった。結衣は取り残されたような気持ちで、その背中をただ見送るしかなかった。
武蔵野線で越谷レイクタウン駅へ帰る電車の中で、結衣はスマホを開いたまま、何も検索しなかった。窓ガラスに映る自分の顔が、少し赤かった。
(あの感じは、なんだったんだろう)
電車が揺れるたびに、さっきの体温が繰り返し蘇ってくる。
窓の外には、オレンジ色に染まった空が、どこまでも続いていた。
つづく




