【血の狩猟03/辛苦の争い】
「まさしく怪なる獣――定命のものではなかったか」
テンヌの声は僅かに震えていた。動揺の中、シズハは脊髄反射めいた疑問を口にした。
「死なない獣を狩ったことってある?」
「あるものか! ……退がるぞ!」
シズハはそばに放り出していた松明をすばやく回収した。
ふたりは、血みどろヤギの上下逆さとなった顔を見ながら、一歩二歩と間合いを広げる。
四本の足で血を踏みしめた巨獣は、それに対して前足で一歩踏み込んでくる。
重力に負けて垂れ下がった首を、ぶらぶらと揺らしながら。
焦点の定まらない四つの眼が、確かにシズハたちに向けられている。
(死に際の硬直や筋肉の痙攣とは違う……この大きさの獣で首が折れて動くなんて、そんなカマキリやハチみたいなことが起きうるのか!?)
シズハは足を動かしながらも、思考を巡らせていた。
手持ちの武器は、シズハが腰に差した抜き身の蛮刀と、テンヌが担いでいるツルハシのふたつ、あとは投石程度だ。松明も武器にはなりうるが、下手な扱いをすれば火種を失う。
「打つべき手は打った……もはや血が流れつくして力尽きるのを待つほかあるまい!」
テンヌの言葉にシズハは頷く。果たしてそれで死んでくれるのかという疑念は付きまとうが、首をぶち折っても死んでくれない獣に対して、この場で出来ることがあるとは思えなかった。
わずかな隙を見計らって、シズハは敵と正対しながら素早く石ころを拾い、スリングを用いずにそのまま投げつける。
それを無言の合図として、ふたりは敵に背を向けて走り出した。
が――
『グヴェェェッ!』
血みどろヤギのねじれた喉から、禍々しい叫び声が上がった。
「うぐっ……!?」
瞬間、シズハの身体がすくみあがり、呼吸が詰まる。指先のひとつも動かせなかった。全身の血のめぐりが静止したかのようだ。辛うじて松明を落とさないのがやっとだった。
獣の叫びに、猛烈な辛苦の念を感じ取ったのだ。止まることのない痛みと飢餓のなかで『止めさせろ』『満たさせろ』とでも訴えかけるような。
「どうしたのじゃ!」
テンヌの戸惑いの声でシズハの身体はようやく動き出した。だがその時には、すでに迫る血みどろヤギの鼻息が、彼の肌に感じられる距離だった。
下顎が上へと大きく開かれる。赤茶けた門歯が克明に見えた。
シズハは反射的に動いた。右手で蛮刀を逆手持ちにし、迫る口へと刃をかざす。
が――シズハの前腕に、ヤギの歯が食い込んだ。蛮刀ごと食らいつかれたのだ。真っ赤な血が松明に照らされる。
「うわあああっ!」
シズハの耳に、己の骨が軋む音が響く。文字通りの骨伝導だ。
握る力を維持できなくなり、シズハの指は蛮刀から離れる、
しかし刀身はヤギの肉に食いこんで動かない。刃が大きく裂けた口をより広げていた。
草食獣でありながら、同族の血肉を喰らってきた顎の力は、まさに肉食獣と遜色ないものであろう。首が折れているとは思えない喰らいつきである。
シズハは身じろぎして振りほどこうとするが、むしろ肉の裂ける痛みが増した。
ヤギは四つ足で踏ん張り、逃れることを許さないのだ。
(引き込まれる! ……いや、ねじ伏せられる!?)
さらには肉食獣がするように、獲物を強く噛みながら首を回そうとしている。頭が上下反対にねじ曲がったのが、徐々に正しい向きへと復元しているのだ。
その力に逆らえず、シズハは膝を地に着いた。
腕から伝わる激痛の中に、もうひとつの異様な感覚が混ざる。ざらついた何かが繰り返し皮膚を撫でるのだ。
(こいつ……僕の血を舌で舐めとっているのか!)
『ググ、ウグ、ウグフッ……』
血みどろヤギの腹の奥が、奇怪に鳴る。喜んでいるようでもあり吐気を催しているようでもあった。
背筋に怖気が走り、力が抜けていく。もはや抵抗することもできず、身体がねじ伏せられていく。三つ編みが枯れ沢の砂地に着いたのが分かった。
その時、静かな怒声がした。
「――シズハ、すこし響くぞ」
テンヌがツルハシを振りかぶっていた。血みどろヤギの右肩へと、大上段から鉄の嘴が打ち下ろされる。
渾身の一撃は肉へと深く突き刺さった、血と泥に汚れた毛皮はもはや出血も定かではなかった。
「その子の肌も腕も、血の一滴も。畜生が触れていいものではない……!」
テンヌの怒りは、極めて静かに表れていた。それは炎でも嵐でもなく、まさに氷のようだ。静かだが裏腹に、厳然たる硬質な意思が潜んでいる。
彼女はさらに、渾身の力でツルハシの柄を押し上げる。てこの原理で嘴がヤギの肩肉を裂き、さらにはどこか骨と骨の間へと食いこんでいた。
がくがくと右前足が震えて、血みどろヤギの全体がゆらぐ。シズハは、喰らいついてくる顎の力がわずかに鈍ったのを感じた。
(今しかない!)
シズハは左手の松明を、ヤギの下顎へと押しつける。
血に濡れた髭は燃え上がらない。だがその熱は、仮にも生物であった血みどろヤギをひるませるには充分だった。
本能的な作用で顎が開いた間隙に、シズハは左手で蛮刀を握り、ヤギの右足を蹴りつけて一気に抜け出した。
右腕はもはや動かない。激痛に支配されている。
しかし痛み以上に、シズハを突き動かす衝動があった――




