【血の狩猟02/立ち上がる】
走り続けたうちに、いつの間にか日は落ちていた。周囲の森はすっかり闇だ。枯れ沢は月に照らされているが、傍らに松明がなければ手元もあやしいほどだ。
シズハは、常に背後から血みどろヤギが迫りくる戦いを終えたことで、全身へと一気に疲労が噴き出た。
両手と両脚と腰と、普通だったら重さなど意識しないが、今この時は鉛をくくりつけられたようだ。
へたり込んだまま動けないが、それでもゆっくりと顔を上げる。
狩りの標的――血みどろヤギは完全に沈黙していた。
テンヌの罠で高台から飛び降りる際に体勢を崩し、シズハの手によって落ちざまにショベルで喉を刺され、そのまま地面に激突したことで骨にまで達する傷を受けたのだ。
敵の巨躯が、そのまま致命の矛を届かせる力になる。シズハの思いついた策をテンヌと練り上げて作戦と成したのだった。
ヤギの横長の瞳孔は、どことも知れぬ虚空に向かっている。濁った眼はただただ物理的な反射で、松明の灯りを映すばかりだ。
腹が地面にべったりと着き、四肢はだらりと力ないのに対し、頭部は地面にめりこんだショベルに支えられている。
首枷こそないが、断頭台にかけられた罪人のような有様だ。
シズハの手には、骨を突いた感触が残っている。滴る血によって、肌に砂がまとわりついてきた。
(少なくとも今は……哀れみなんて忘れよう。わが身を助け、生きるために食べる。恥じることはなにもない)
彼は砂で手を擦り、少しでもと血を落とした。ざらつく感触でしびれを拭うように。
「シズハ、よくぞ無事だった!」
テンヌが崖の上から降りてきた。その手には廃屋から拝借したツルハシが握られている。シズハの攻撃がうまくいかなかった場合に、次の一手として振り下ろす段取りをしていたのだった。
テンヌから手が差し伸べた手を握り、シズハはようやく立ち上がった。
その時に気づく。彼女の手、人差し指の付け根から親指にかけて、擦り傷で血がにじんでいた。縄を思い切り引っ張った際、血みどろヤギの巨躯の重みがかかってできたのだ。
だが本人は、素知らぬ顔で微笑む。
「ふふ、こうもひとりでやり遂げるとは、危ぶんでいたのが愚かしいのう」
「いや……狩りに打って出ると決めたあのとき、あのまま蛮刀ひとつで挑んでいたら、君の言う通り僕は生きてはいなかった。見立ては正しかったんだよ」
ふたりが肩を並べて獲物へと視線を移したその時。ヤギの首が異音を立てた。
めりり。ごぐ、がぎ。
頸椎が折れて、頭部の上下がひっくり返っていた。ショベルによる傷が広く裂けている。角同士が絡みついた生首の重みを、支えられなくなっていたのだ。
シズハは思わず顔をしかめ、眼を逸らした。上下逆になったヤギの顔と、腐った生首から恨めしく睨まれているような気がした。
「止め刺しは……無用かの。さてこうなると、どう解体したものか」
血を抜き、はらわたを取り除き、皮を剥ぎ、肉を切り、骨と骨を分離させる必要がある。さすれば手や刃物が汚れるため、すこしでも衛生を保つために水場が求められる。
「少々無理をしてでも、縄をかけて崖の上に担ぎ上げるか、あるいは時間がかかろうと枯れ沢を下って浜辺まで向かうか……」
テンヌはすでに頭領として動く際の思考の巡らせ方へと切り替わっていた。
「一息に運ぶことは無理でも、いくらか部位を切り分けて運ぶってのは?」
「うむ。それがよい。頭部はこのまま落とそう。それにどうせ切り分けるのなら、この場ですこしばかり肉を切り分けて食べるとするか。その方が精もつく」
「切り分けるのは僕がやろう」
「なぜだ? あれだけ走ったばかりであろ? もうすこし座っておれ」
「傷口が……獣の血に触れない方がいい。まずはふたりとも、小川で手を洗ってから……」
不意に風が吹く。シズハの三つ編みを引っ張るように吹き晒した。
その時、彼は促されるように、血みどろヤギの方へ顔を向けた。
「はあ……っ!?」
驚きと、半ば憤りにも似た気持ちが、口を突いて出た。
テンヌも異常に気づいて、とっさに振り向く。豪胆な彼女も、一瞬嘔吐を催しかけて喉を鳴らした。
「む……うっ!」
頭部がそっくり返り、喉笛の血脈も断った血みどろヤギの四本の足が――動いている。確かに四肢の蹄を地に付け、巨大な胴体を支えて立ち上がっている。
「バカな……なんなんだこいつは!」
軽い音を立ててショベルがその場に倒れた。
ひっくり返った顔で、血みどろヤギはシズハを睨みつけていた。舌を出し、鳴らない喉で声を上げる。
『ヴ、ヴ……グヴ……』
口の両端が裂け、大きく開かれる。だが肉の裂け目から血は流れない。
首の傷も、口の裂け目も赤い血潮がかよっていない。
むしろ松明の灯りを受けて、赤い肉のなかに垣間見えるは、うっすらとした銀色だった。
次回予定
10/10朝追記:11日の朝ごろになりそうです




