【血の狩猟01/逃げの戦い】
準備を整え、狩りへと発つ前のこと。
ふたりはこの断島に流れ着いて初めて、二手に分かれての行動をとる。
「それじゃ、あとは作戦通りに。頼むよ」
「無論。抜かりはない。おぬしばかりが動かねばならぬというのに、こちらがへまをしてたまるか。しかし……ちと待たぬか」
テンヌはシズハが腰に差していた蛮刀を手にした。そうして刀を鞘から抜き、鞘だけを自らの帯に差す。
そして刀だけをシズハの手に握らせた。自らの手で包むように、丁寧に。
シズハは手にした蛮刀と、テンヌが差した鞘とを見比べ、首を傾げた。
「なにごと?」
「いざという時には、刃抜く一瞬も惜しかろう?」
「それはそうだけど……わざわざ抜き身にして、走ったり跳ねたりはやりたくない」
テンヌは口の中でひとつふたつ言い訳をしていたが、やがて改まって言う。
「この鞘へ刃を収めに来い、ということじゃ。さもなくば許さぬ」
彼女のほほが僅かに赤い。シズハは知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
「ふ……返せなかったとして、そのうえで許さないって、どうなるのかな?」
テンヌは大まじめに言う。
「ふん。知れたことよ。約束を果たしたのち、おぬしのことをきっぱりと忘れ去る。名前さえ覚えてやらぬ。わかったな?」
冗談を飛ばしたつもりが、重大な罰則が用意されていた。
「なるほど、それは……死ぬより嫌かもね」
シズハは蛮刀を握る感触を確かめながら、うやうやしく腰に差した。
***
夕陽に照らされ、浜辺から見える銀海流の海面は金色に近い輝きだ。
さきほどまで海水を飲んでいた血みどろヤギの顎髭から水が滴り落ち、わずかに光を帯びる。
岩陰ごしに接近したシズハは、標的の姿を再確認していた。
(明るい中で見るとよりわかる……なんてデカブツだ。暗さと恐怖で巨大に感じたんじゃないな)
まっすぐ立った時の頭の高さは、シズハとほぼ同じだ。
牛のような胴体と、農耕馬のような四つ足、いずれも太く分厚いものだ。そしてかつては白かったものが血と土に汚れた、赤黒い毛並み……どれをとってもヤギ離れしている。
だがなにより異様なのはやはり、長い角と角が絡みって取れなくなっている、同族の生首だ。文字通りの首級である。
(獣を人間の尺度で断じるものじゃないが……あまりにも禍々しい。もはや躊躇うことなし!)
そう己に言い聞かせていた。
標的との距離は、こちらが有効打を与えられ、かつ逃げに移るに充分というギリギリの間合いだった。
シズハはそばの石ころを広い、投石紐を構える。片袖を切った布を長く帯状に整えてつくったものだ。
回転運動による速度を与えた石を解き放つと、風切り音がしてまっすぐに飛んだ。
頭部を目がけて投じ、狙いそのものは正確だった。だが直前に敵が動いた。わずかな音に気付き、身構えたのだ。
命中したのは頭上の生首だった。血みどろヤギ自身の肉体にはひとつの傷もついてない。
しかし生首にめり込んだ石の周りから、どろりとドス黒い体液が垂れた。
血みどろヤギは、獣の喉から放たれたものとは思えないような叫び声を上げて、頭部を上下に振り回し、怒りで全身を震わせる。
「死臭の不愉快さに気も狂わんばかり……ってところかな」
シズハが岩の上へと躍り出ると、ヤギは人間の存在に気づき見あげてきた。
手にした石を、立て続けにふたつ投擲すると、血みどろヤギは巨体に似合わぬ機敏さで間合いを詰めてきた。
「そうだ、走れ。追ってこい! 新鮮な肉が逃げ出すぞ!」
片手の松明を見せつけ、岩から飛び降り森へ駆け出す。
茂みを飛び越えて木々の間へ走りこむと同時に、背後で木立のへし折れる音がした。獣の濁った叫びが近づいてくる。
シズハが向かったのは、最初に探索した枯れ沢を見つけたのとは別の方面だ。木々のまばらな獣道を見つけていたのだ。作戦のために、ある場所を目指しての行動である。
いくつもの木々を抜け、坂を駆けのぼり、シズハは走り続けた。逃げ切るわけにはいかず、常に敵を補足し続けながらの逃避行である。松明を手にしていたのは、敵から見てわかりやすい目印になるのが理由のひとつだ。
闇のなか、テンヌを背負って逃げ続けた一夜とはまた別の緊張が常にあった。
ふとした瞬間に、空腹で身体の力が抜けそうになる。しかしそうなるたびに、腹の底から力が湧いてまた次の動きへつながるのだった。
シズハは迫りくる血みどろヤギから一定の距離を保ちながらも、間合いが十分に離れたと見るや石を投じて攻撃を加えていた。
狙いをつける余裕がなく、命中するのはマトの大きな胴体がほとんどだった。敵は血を流すことも動きを止めることもない。分厚い毛皮に阻まれ、命に届く一撃とはならないのだ。標的が人間であれば肉が抉れる威力にもかかわらずだ。
(命がけでも蛮刀ひとつで……なんて言ってる場合じゃなかったな、まったく!)
テンヌが真剣に止めた理由もわかろうというものである。
血みどろヤギは、シズハの姿が目に映る限り、獰猛な執念で常に迫り続けてくる。逃げ足が鈍って接近を許すや否や、なによりもまずその口で噛みつこうとしてくるのだ。ひと噛みでも許せば、そのまま振りほどけずに巨体で押しつぶされ、血肉を粉々の骨ごと頂かれることだろう。
どうしようもない飢えと、その身に絡みつく死臭、ふたつの辛苦が獣の巨体を突き動かしている。
(その衝動がなによりの脅威……しかし、そのまま決してあきらめてくれるなよ!)
森の中を大回りして、やがてシズハは目的の地点へと到達した。通ってきたのは、一昨日の晩にヤギから追い回されたルートの逆行である。
だが一点の違いは、誘い込んだ地点だ。枯れ沢の滝の上にでるよう、坂をひとつまたいだ道筋を選んでいたのだ。
シズハは崖を背にした。血みどろヤギは速度を緩めることなく突っ込んでくる。
「そう。崖から飛び降りたとしてなんの問題もない――お前はそうだ」
心臓が早鐘を打つのを感じていた。ここからが主題、作戦の本命――
シズハは松明を放り、崖から跳び降りて受け身をとった。あの夜と同じように。
そして血みどろヤギも同じだ。減速をせず、血肉を求めて突進してくる。
人の背丈の数倍の崖から、巨大な獣が跳ぼうとした瞬間。
「テンヌ! いまだ!」
「うむ!」
崖上に隠れていたテンヌが立ち上がり、腕を引く。ヤギの足元でロープが跳ねあがった。木に結んだロープを、枯れ沢をまたぐように地に這わせていたのである。
作戦に基づき、別行動していた彼女の下準備だ。崖から跳び降りようとするその瞬間、勢いをくじかせたのだ。
その時、シズハはひとつの矛を手にしていた。
山小屋で見つけたショベルである。長く頑丈な木製の柄と、金属の匙部が備わっている。先端は研ぎ直して刃物のようにしてある。テンヌがこの場に備えていた。
猛烈な速度で走っていた血みどろヤギが、足を取られてもんどりうって落ちてくる。
そこから――シズハの動きは完全なものだった。
テンヌと決闘したときと同じく、思うままに肉体が動いた。
身長の数倍の高さから飛来する巨体へ、シズハはひるまず矛を突きつける。
狙いは一点。頸部。ショベルの先端で切り込むのだ。
少年の腕と脚とが伸びきり、最大の速度を成した瞬間、敵の喉笛を切っ先が突いた。
落ちてくる巨体の重みがかかり、矛先は毛皮と脂肪とを裂いた。
瞬間、血みどろヤギの口から醜い叫び声が上がる。
斜め上からかかる重みに、シズハは逆らわない。しかし地面とショベルの柄とが垂直となるよう、確かに支えていたのだ。
シズハが矛を突きこんだのが第一の衝撃。
そしてショベルの持ち手が地面に着き、逃げ場のない重みが首の一点にかかったのが二度目の衝撃。
瞬間に、叫び声もが断たれた。
硬い骨の感触と、嫌な音とが手に響き――
いつの間にか……シズハはショベルから手を放して一歩退いた位置にいた。
血みどろヤギは四肢を投げ出して、動かない。
頭と胴体は辛うじてつながっているが、頭はだらんと垂れ下がっている。
ノドに突き刺さったショベルで、辛うじて頭部が支えられているような状態だ。
シズハは腕にしびれを覚えながら、その場にへたり込む。
胸の鼓動が、痛いほどに強い。
(やった。断った。殺した。これで少なくとも、外敵は討った……)




